こんなトコまで「めがね」かよ! 顔ハメにマンホール、そしてフェス...「鯖江めがね」の故郷の「めがね愛」が凄すぎた
2022.12.09 12:00
提供元:福井県
鯖江のめがねの歴史を知ろう
何から何までめがねだらけで、めがね愛に溢れた「めがねフェス」を堪能した記者。
なぜ鯖江はこんなにもめがねを愛しているのか。それはこの街が、めがねと共に発展してきたからだ。
フェス会場となった「めがねミュージアム」内にある「めがね博物館」では、その歴史を知ることができる。
めがねが宣教師フランシスコ・ザビエルによって日本にもたらされたのは1551年。その後、貞享・元禄時代(1684~1704年)に国内でのめがね生産が始まったという。しかし、このときめがねが作られていたのは京都や大阪、江戸だった。
それが福井県内で行われるようになったのは、活字文化が広まり、めがねの需要が拡大しつつあった1905(明治38)年のこと。鯖江市に隣接する福井市生野町(当時は足羽郡麻生津村生野)の豪農・増永五左衛門が、雪深い故郷で暮らす人々の生活の糧となるものとして、めがね枠生産に目をつけたのだ。
大阪や東京から職人を呼び寄せてめがねづくりの技術を学ぶと、人々は素早くそれを習得し、この地域における眼鏡枠づくりの技術はどんどん向上していったのだという。
小さな村で農家の副業として始まっためがね枠作りは福井・鯖江に広がり、次第に「まち全体がひとつの大きな工場」といえるような、パーツごとに専門の製造者が分業を行うスタイルに。
戦争の影響で一時は福井のめがね工場が軍需工場となったが、終戦後は戦火を逃れた鯖江を中心に量産体制が整えられ、1970年にはめがねフレームの国内生産シェア8割に到達。
こうして鯖江は「めがねのまち」になったのだ。