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82歳筆者が考える、「ISに入ろうとした」青年...2つの対照的な、現代の若者像

ぶらいおん

ぶらいおん

2016.05.03 11:00
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同じ「鬱屈した思い」に、どう立ち向かうか

   『仕事にあぶれ、「イスラム国」へ? の23歳、和歌山県白浜町出身の男の正体は、「英語も満足に話せず、トルコとシリアの国境で、スマホの翻訳アプリを使い、住民と会話の際、ISに興味があるようなことを話し、それが地元の当局に伝わり、拘束となったようです」(和歌山県警関係者)』とは、お粗末至極!

   しかし、またそこから見えてくるものも色々ある。それは4月12日(火)公開の筆者コラム(『82歳筆者が見た、「クローズアップ現代」最終回...昭和一桁世代が、平成生まれに共感すること』)で取り上げたSEALDsに代表される「考え、判断する若者たち」からすれば、その対極に位置する「若者たち」ということになるのだろう。

   バブル崩壊からの鬱屈した「失われた10年あるいは20年」を同じように体験してきた若者たちにも、二つの流れがあるのかも知れない。

   「自分で学び、考え、判断する若者たち」には、恵まれない時代に対する怒り、悩み、絶望など鬱屈した思いが強く存在し、さぞかし心身ともに痛みを覚えるだろうという見方に対し、いや「自分で学ばず、考えず、判断しない若者たち」にも同じような怒り、悩み、絶望など鬱屈した思いが存在する、という反論があるかも知れない。

   それは、その通りだろうが、前者には、その思いを何とか顕在化し、自分や他者のために解決方法を探そうと、自ら汗を流そうとする行動が見られるのに対し、後者は、降り掛かる嫌な思いから何とか逃れようと、全てを曖昧に放置したまま、何か既存の隠れ蓑を求め、その中に自分を埋没させることにより、怒りや悩みを希釈させようとしている点で大きな違いがある。

   このISに興味を示した若者は「非正規の仕事ばかりで、日本が嫌になった」と自身の不満を国や社会の所為にし、ふらふら揺れ動く己を、余り深く考えもせず、既成体制の全てを否定する集団の中に、取り敢えず己を放り込むことで、目の前の不安や不安定さを何とか誤魔化そうとした節がある。

   この状況は、一見、先のコラム中で触れた「銃後の少国民」の立場に似ている面もある。つまり、結果的に自分では、一切考えようとしないことだ。しかし、別な言い方をすれば、当時普通の少年少女たちには「考える余地」すら与えられていなかったこともまた事実なのだ。

   それでも、両者に共通するのは、「固定化された既成の仕組み」に組み込まれることが「自立化や自己決定権」を放棄することに繋がるにも拘わらず、一方で「余計な悩みにも、取り敢えず煩わされ無くなるように感ずる」ことを求めた点であろう。それは結局、イージーで、不健全な「安心や安定感」のようなものが得られるに過ぎないのだが...。

   しかし、そのような行動は自分のみならず、一般社会にとっても非常に危険である。何故なら、圧政者や独裁者は将にそういった状況を作り上げることに腐心し、そしてそれを最大限に利用しようとするものだ。そして、一旦そういう流れが出来てしまうと、とんでもない結果が生ずる。ヒットラーが台頭し始めたときも、日本の軍部が暴走し、その結果もたらされた惨憺たる荒廃の、滑り出し時の状況も全く同じだ。

   たとえ、一部に良識を持った人々が存在しても、一度発生してしまった雪崩現象はどんどん膨れ上がり、そして一旦そうなると、もう誰にも止められなくなることは歴史が教えてくれる。

   過去の我が国においても戦時体制中に置かれた若者たちが、「自分で学び、考え、判断するのでは無く、ひたすら純粋に信じ(あるいは信じ込まされ)、行動すること」のみを求められ、あたら掛け替えのない生命を喪失した経緯がある。それは結局、命を失った若者たちのみならず、日本という国の社会全体に大きな損失をもたらしたことは間違い無い。

   似たような状況は、世界からどんどん孤立して行く隣の半島北側の国や、ここで問題のISという組織内における狂信的とも思える挙動中に見て取れる。

   だが、ISの内情について、筆者は、通常の報道の範囲でしか知らない。しかし、もし、その中に掛け替えのない自分の身を投じようとする若者ならば、先ずは自ら十分納得出来るだけの知識や理解を得ることが必須であろう。

   強制送還された若者が、言語の異なる人々との満足なコミュニケーションの手段すら整えることなく、あやふやな気持ちの侭、漠然と硬直的な組織に近付いたとすれば、それは余りにも軽はずみで、そこには自己の存在が感じられぬ。

   筆者は、此の世に生まれて来た人間が、その人なりに自分の人生を満足に全うするためには、「自分の生き方を、自分で納得出来るか否か」に尽きる、と考えている。

   その為には、「自分の納得出来る生き方」がどういうものなのかを、良く考え、確りと把握することが肝要である。高い望みでも、余り高くない目標でもそれは問題にならない。要は身の丈に合った目標であって、それを一生持続できるか、どうかの問題である。

   長い人生の間には、挫折も失敗も、達成も成功もあることだろう。だが、それに一喜一憂することは余り意味が無い。考え抜いた末、自分の取った行動、決断の結果が歓迎すべきものであれば、それはそれで大いに幸いであるし、よしそれが望まない結果に終わったにせよ、何ら後悔することは無い。と言うのは、自分が納得した上で行動して、得られた結果だからだ。大事なのは、結果そのものでは無く、己の行動や決断が「本当に、自分が納得したものだったか、どうか?」の検証を冷静に行うことだ。

   自分たち自身や、延いては国の将来を心配し、学び、考えて、活動を始めたSEALDsに代表される若者たちが、「真に、自分で納得出来る」行動を続けたなら、その結果如何で後悔することはあるまい。その運動に自ら身を投じ、努力した、という事実が消え去ることは無いのだから。

   従って、その対極に位置する「ISに興味を示した者」に属する若者たちは、自分の周りの「非正規の仕事ばかりで、日本が嫌になるような」環境自体を、先ず、何とか周りを巻き込みながら、自ら変えようと努力せねばなるまい。その為には「安易に、自ら逃避する」のでは無く「辛い思いを怺えて、自分に挑戦」することから始めねばならない。

   特に、今のように生き辛い世の中の若者たちには、他人を当てにしているだけでは何事も進まないし、道は拓けないことに一刻も早く気付いて「自分が納得出来る」道を探し当てて欲しい。

   宋代の漢詩に『少年老い易く学成り難し 一寸の光陰軽んずべからず』とある...。

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筆者:ぶらいおん(詩人、フリーライター)

東京で生まれ育ち、青壮年を通じて暮らし、前期高齢者になって、父方ルーツ、万葉集ゆかりの当地へ居を移し、今は地域社会で細(ささ)やかに活動しながら、西方浄土に日々臨む後期高齢者、現在100歳を超える母を介護中。https://twitter.com/buraijoh
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