新刀剣男士実装で注目の薩摩刀「笹貫」って、どんな刀? 故郷・鹿児島の専門家に聞いてみた
刀鍛冶は、なぜ大和から薩摩にやってきたのか?
Jタウンネット記者の取材に応じたのは、鹿児島県歴史・美術センター黎明館学芸課長の切原勇人(きりはら はやと)さんだった。
「薩摩国の刀は、平安時代の永延年間(967年~989年)、大和国(奈良県)から刀鍛冶の正国が、鹿児島市谷山で、大和伝の刀を鍛えたのが始まりとされています」(切原学芸課長)
平安時代に、刀鍛冶がなぜ大和から薩摩にやってきたのかは、定かではない。ただ当時、畿内からは優秀な仏師集団が薩摩を訪れており、文化の伝播や物流が盛んであったという。その中に、優秀な刀鍛冶もいたようだ。
「薩摩は当時、全国でも屈指の砂鉄の産地だったようです。刀鍛冶の作業に必要な良質な木炭も豊富に確保できるということで、正国は、ここにフイゴを据えたのだと思われます」(切原学芸課長)
そして刀鍛冶の正国は「波平行安」と名乗るようになる。名前の由来については、こんな話が伝わっているという。
「正国は、薩摩に来てから数年経つと、納得いく刀を鍛えることができたので、妻子を迎えに大和に船で帰ることにした。
しかし、海は大荒れとなり今にも転覆しそうな船の上で、海神の怒りに触れたのではないかと思った正国は、自分で鍛えた自慢の刀を海神に献上しようと、荒れた海に投げ込んだ。
すると、嵐はたちまち静まったのだという。このことから、『波平らかにして、行くこと安らか』の意味で、波平行安と名乗るようになったというのだ」(切原勇人著「薩摩の陶と刀」より)
そんな初代から始まった「波平刀匠」は、平安時代から明治時代初期まで約900年間、脈々と受け継がれていくことになり、「波平行安」という名も襲名されていく。
新刀剣男士のモチーフとなった「笹貫」は、平安時代後期の波平行安の傑作、銘に波平を冠した最古の例とされている。
その「笹貫」には、こんな言い伝えが残されている。
「行安は、刀鍛冶として、世に残す渾身の刀を鍛えたいと思い、妻に『今から命がけの刀を作るから、俺がいいというまで仕事場を覗かないように』と言い聞かせて鍛冶場に向かった。
妻は、この言いつけを守り、作った食事を鍛冶場の入口に置くだけで、戸を開けることはなかった。しかし何日経っても、行安からの声はかからない。そこで、心配になった妻は、許可なく、鍛冶場の戸を開けてしまった。怒った行安は、それまで鍛えていた刀を、天高く放り投げた。
次の日、鍛冶場の近くの竹林の中が妖しく輝いていた。見ると、柔らかな笹の葉を何枚も突き刺した刀が、妖艶な光を放っていたという。
このことからこの刀のことを笹貫と呼び、この行安の鍛冶場のあった地域を『笹貫』と名付け、今では笹貫電停(鹿児島市の路面電車)もあり、この地名を今に伝えている」(切原勇人著「薩摩の陶と刀」より)
新刀剣男士「笹貫」推しの審神者は、鹿児島市の路面電車に乗って、笹貫で電車を降り、「波之平刀匠遺蹟」を訪ねてみてはいかがだろう。笹貫がより身近に感じられるかもしれない。