江戸川を挟んだだけでこの違い 東京のすぐ隣に広大な農地が残り続ける理由とは
米作中心から畑作へ
こうして、洪水の影響で「農村」だった場所には人が住まなくなり、ただの「農地」に。そして、明治時代に入ってからもさらなる変化があった。
「今でも水田は残っていますが、それまで米作中心だったのが、矢切ねぎの栽培など畑作を取り入れるようになったんです。人々が台地に移転したことで、農業が多角的になったのです」(松戸市立博物館の職員)
それからまた時は過ぎ、昭和。松戸市は計画的な市街化を誘導するために「市街化区域」と「市街化調整区域」の2つに区分された。1970年のことだ。
「市街化区域」は既存の市街地、あるいは整備が進められて市街地になる予定の地域のこと。「市街化調整区域」には優良な農地が残っている地区、保全すべき山林がある地区が指定され、原則建物の建築ができない。下矢切から中矢切の農地は後者の「市街化調整区域」に分類された。
松戸市街づくり部都市計画課の職員はこう話す。
「地域の区分は駅の開業などで変わることもあるのですが、下矢切から中矢切にかけての農地は昭和45年に初めて区分されてからずっと市街化が難しい『市街化調整区域』のままです」
これも、農地が残っている1つの要因と言えるだろう。ただ、それだけではない。
「推測ですが、今でもずっと農業が営まれているのは、それぞれの地権者が営農の意思を持っているからではないでしょうか」(街づくり部都市計画課の職員)
現在、下矢切から中矢切にかけての農地では主に矢切ねぎやキャベツが栽培されており、水田で米を作る農家もいる。
江戸時代の人々の移転、明治時代に始まった畑作の導入、そして現代で農業を続ける農家の意思――それぞれの時代を生きる人々の決断が柴又との風景の差を生んだのかもしれない。