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江戸川を挟んだだけでこの違い 東京のすぐ隣に広大な農地が残り続ける理由とは

大山 雄也

大山 雄也

2022.06.01 20:00
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細川たかしさんが歌い、1983年の第25回日本レコード大賞を受賞した名曲「矢切の渡し」。

曲名になっている「矢切の渡し」とは、東京・柴又と千葉・松戸を結ぶ渡し舟が発着する渡し場のことなのだが、2022年5月上旬、この地域がツイッター上で注目を集めた。

理由は、矢切の渡しがある江戸川の柴又側と松戸側の「差」だ。

矢切の渡し周辺の航空写真。西側が柴又側、東側が松戸側 (C)Google
矢切の渡し周辺の航空写真。西側が柴又側、東側が松戸側 (C)Google

こちらはGoogleマップで見た矢切の渡し周辺の航空写真。西(向かって左)側が柴又、東(向かって右)側が松戸である。

この写真を見て、その差に驚いた読者もいるだろう。

柴又側には金町浄水場をはじめ、住宅など建物がびっしり。対照的に、松戸側にはとにかくたくさんの畑が広がっているのだ。

どうして農村地帯が広がっているの?

なぜ江戸川を挟んだだけでこれだけ差が出てくるのか、たしかに気になる。

そこでJタウンネット記者は畑が広がる下矢切から中矢切にかけての地域の歴史を調べるために5月20日、松戸市立博物館の職員に話を聞いた。

農村地帯が広がる下矢切から中矢切周辺の航空写真 (C)Google
農村地帯が広がる下矢切から中矢切周辺の航空写真 (C)Google

職員によると、元々松戸のこの地域は元々、今のように一帯が畑だらけというわけではなかったという。

「この地域からは、供養塔が出土していて、戦国時代に人が住んでいたのもわかっています。かつては田があり、そのそばに人が住んでいるという地域だったのです」(松戸市立博物館の職員)

人々の生活があったこの地域に変化が訪れたのは江戸時代の宝永年間。この時期に大洪水があったという。

「伝承ではありますが、宝永の大洪水があった後、矢切の人々がそれまで住んでいた江戸川沿いの地域を出て、台地に移転したという話があります」(松戸市立博物館の職員)

米作中心から畑作へ

こうして、洪水の影響で「農村」だった場所には人が住まなくなり、ただの「農地」に。そして、明治時代に入ってからもさらなる変化があった。

「今でも水田は残っていますが、それまで米作中心だったのが、矢切ねぎの栽培など畑作を取り入れるようになったんです。人々が台地に移転したことで、農業が多角的になったのです」(松戸市立博物館の職員)

Googleストリートビューで見た農地の風景 (C)Google
Googleストリートビューで見た農地の風景 (C)Google

それからまた時は過ぎ、昭和。松戸市は計画的な市街化を誘導するために「市街化区域」と「市街化調整区域」の2つに区分された。1970年のことだ。

「市街化区域」は既存の市街地、あるいは整備が進められて市街地になる予定の地域のこと。「市街化調整区域」には優良な農地が残っている地区、保全すべき山林がある地区が指定され、原則建物の建築ができない。下矢切から中矢切の農地は後者の「市街化調整区域」に分類された。

松戸市街づくり部都市計画課の職員はこう話す。

「地域の区分は駅の開業などで変わることもあるのですが、下矢切から中矢切にかけての農地は昭和45年に初めて区分されてからずっと市街化が難しい『市街化調整区域』のままです」

これも、農地が残っている1つの要因と言えるだろう。ただ、それだけではない。

「推測ですが、今でもずっと農業が営まれているのは、それぞれの地権者が営農の意思を持っているからではないでしょうか」(街づくり部都市計画課の職員)
東京のすぐ隣に、広い農地が残っていた理由(C)Google
東京のすぐ隣に、広い農地が残っていた理由(C)Google

現在、下矢切から中矢切にかけての農地では主に矢切ねぎやキャベツが栽培されており、水田で米を作る農家もいる。

江戸時代の人々の移転、明治時代に始まった畑作の導入、そして現代で農業を続ける農家の意思――それぞれの時代を生きる人々の決断が柴又との風景の差を生んだのかもしれない。

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