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「被災地を観光する」岩手県陸前高田市【前編】:傷跡から記念公園へ 原風景を失った街が目指す姿

中丸 謙一朗

中丸 謙一朗

2018.06.13 17:00
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[文・写真 中丸謙一朗(コラムニスト)]

   1977年に公開された『遠すぎた橋』(監督・リチャード・アッテンボロー)という戦争映画がある。第二次世界大戦中に行われた連合軍の「マーケット・ガーデン作戦」を、ロバート・レッドフォード、ジーン・ハックマン、ショーン・コネリーなど、豪華キャストで描いた米英合作の超大作である。当時、中学生になったばかりの筆者をこの映画に連れて行ってくれた人物が、今回の旅の案内人である。

   中丸勝典氏は現在、陸前高田市役所の農政課に勤務している。彼は神奈川県大和市役所に籍をおくが、2011(平成23)年の東日本大震災を機に、職員の足りなくなった陸前高田市役所の「派遣部隊」として、2年以上に渡ってこの地で勤務している。最初に私事を告白しておく。この案内人は筆者の6歳年長の縁戚関係にあたる人物である。

   未曾有の被害を及ぼした東日本大震災からはや7年の月日が経った。震災とそれに次ぐ津波は、宮城、岩手、茨城など各地に甚大な被害をもたらした。なかでも岩手県沿岸部の都市・陸前高田市は、死者1752人と県内でも最大級、全体でも宮城県石巻市の3553人の次ぐ被害の大きさであった。また同時に、陸前高田市は100人以上の市役所職員も失った。住民の安全と大事な情報を預かるきめ細やかな業務が求められる地方公務員には、ハイレベルのモラルと職務能力が求められる。そこで陸前高田市は全国の市町村へ応援要請をし、各自治体からの派遣職員を募った。今回の旅の案内人は、その派遣職員のひとりなのである。

   復興過程の被災地・陸前高田の現在の状況は? かつて賑やかだった南向きの明るい街は震災で何を失い、何を取り戻そうとしているのか。遠方からやってきた行政マンの目に映ったこの街の姿は? はじめて訪れた筆者が感じたこの街の「構造」とは? そんな疑問に、7年後の視点から静かに迫ってみたいと思った。

何もない違和感と「震災遺構」

いまや陸前高田を象徴する風景となった「奇跡の一本松」
いまや陸前高田を象徴する風景となった「奇跡の一本松」

   陸前高田に到着し最初に目にしたのは、やはりあの「奇跡の一本松」だった。朝焼けの光のなかにシルエットとして浮かんだ「震災遺構」は神々しいまでに美しかった。わたしはその景色を夜行バスの窓越しに見た。師走に入ったばかりの季節。バスのなかからもわかるひんやりとした明け方の気温を、結露を拭う指先で感じながら、まだ一度も被災地を訪れたことのなかった「横着者」のわたしに、これから訪れる街はいったいどんな景色を見せつけるのか。すでに出発から7時間。ぼんやりとした頭に微かな緊張を感じながら、目的地に向かうバスの揺れに身を任せていた。

   朝6時半頃、バスは陸前高田市役所前に到着した。ここは震災のあとから造成された場所で、高台の上を走る一本の道路の西側には新しくつくられた警察や消防署、JRバス専用駅、市民のためのコミュニティホールなどがあり、反対側にはプレハブの陸前高田市役所仮庁舎が建っている。

「奇跡の一本松」周辺は記念公園として整備される予定だ。
「奇跡の一本松」周辺は記念公園として整備される予定だ。

   「やあ、よく来たね」。その彼はバス停まで迎えに来ていた。時間は朝の6時半である。わたしは到着してまだ間もないうちに、この地域の「何もない違和感」を、取材者としての高揚感も手伝い不躾(ぶしつけ)にまくし立てた。彼は黙って聞いていた。

   正確に言うとここには何もないのではない。小さいが「駅」もあるし、一部仮庁舎ではあるが行政施設も揃っている。バスを降りた場所の目の前はピカピカの大手のコンビニチェーンである。

   正直に言おう。外部からの不躾な取材者(侵入者)が求めたのは被災地としての景色である。同情すべき被災地としての緒(いとぐち)を目の前の風景のなかに見つけ、観光客、あるいは(良心的に言って)取材者として早く安心したかったのである。

   勝典さんは用意していたクルマを走らせながら、ある場所を案内してくれた。街の西側にある、津波の到達した跡が残る高い鉄塔と津波によって寸断され廃線になった線路である。これがわたしが恥ずかしくも求めた景色だ。はじめての土地だがわたしの体感でも、ここは海からはかなりの距離があることがわかる。わたしは思わず息を呑んだ。

仮設住宅にはまだ多くの住民が残されている。
仮設住宅にはまだ多くの住民が残されている。

   まだ時間が早いので、時間調整のため彼の住む家へと向かった。現市役所から数分の高台の上にある市立中学校の校庭に建てられた仮設住宅に、彼は住んでいる。1Kの広さの簡素な部屋だが、最低限の生活家電や暖房器具などが貸与されていた。殺風景な単身赴任世帯の部屋の壁に大きな地図が貼ってあった。陸前高田市の市街図である。

   「眺めていると地理が頭に入って役に立つかなと思って来た時に貼ったんだ」。彼は恥ずかしそうに言った。

   「少し休んでから奇跡の一本松を観に行こう」。握り飯を齧ったわたしは、夜行バスでの寝不足も手伝い、いつの間にか眠りに落ちた。

被災地の傷跡を巡る観光

旧陸前矢作駅周辺で分断された鉄道路線。現在、陸前高田市までは別ルートで軌道を利用したバスが運行されている(BRT)
旧陸前矢作駅周辺で分断された鉄道路線。現在、陸前高田市までは別ルートで軌道を利用したバスが運行されている(BRT)

   奇跡の一本松から津波の襲った海を眺める。海からは小さい入江のようなかたちで水路が伸びており、その周辺はあまり整備されることもなく震災後の面影を残している。松の遠方には廃墟と化している宿泊施設があり、そのまた向こうに、震災後新たに建設中の巨大な水門が見える。

   公園というほどには整備されていない空間を少し歩くと、コンクリート製の巨大な橋桁のようなものが見えた。これも震災遺構だ。津波被害のひどかった中心部を嵩上げするために、市内西部の山を削り巨大なベルトコンベアで土砂を運搬していた時の橋桁だという。

   勝典さんが陸前高田を初めて訪問した折、何本も連結された巨大なベルトコンベアが作動している風景を目にした。それは東北赴任ではなく、まるでSFの世界に飛び込んでしまったかのような錯覚に陥った、と言う。

   周辺を歩く。観光地というほどには設(しつら)えられているわけではない。幾人かの観光客らしき人物と、工事用の鉄パイプで仕切った細い通路ですれ違った。正直、いままで見たこともないような不思議な光景が目の前にある。人の「生き死に」を感じるのかと身構えたが、そういう感じではなく、まるでスクリーンを眺めているような、強烈だが平板な風景だ。忘れがたい観光地だ、わたしはそう思った。

   陸前高田の震災遺構は、そこで死者が出ていないことが設置の条件になっている。多くの犠牲者を生んだ場所を「鎮魂的」に残すのではなく、災害を忘れないための「視覚的」効果としていくつかの場所が保存される。まだ午前中の逆光のなかにそびえ立った震災遺構は神々しくもありまた寒々しくもあった。

   被災地を見に来る。それはわかりやすい「傷跡」を感じに来る行為だ。この残酷とも取れる行為の是非は議論のあるところだが、自治体の「経営」上無視できるものでもない。現在、この場所は「記念公園」としてもう一度生まれ変わらせる計画が進行している。この場所が後年どのように評価されるのかはわからない。だが、より整備され設えられた観光地として、内外からの人々を待つことになるという。

現在のJR陸前高田駅(バス専用)
現在のJR陸前高田駅(バス専用)

任務遂行というやりがい

   陸前高田の街の中心部は甚大な被害にあった。震災前のものはひとつとして残っていない。道さえも新たに付け替えられ故郷に帰省する人間さえも道に迷わせる。震災に強いまちづくりを目指し、陸前高田の人間たちが行ったことは、街を10メートル以上嵩上げし、街を一から作り直すということだった。

新設された住宅用の高台から市内を望むと津波の被害状況が想像できる。
新設された住宅用の高台から市内を望むと津波の被害状況が想像できる。

   前述したベルトコンベアによる大規模な土木工事は終了し、現在、街の中心部にはピカピカのショッピングモールが建っている。生活必需品の調達だけでなく、地元の憩いのスペースも兼ねられるよう設計され、地域の図書館や新たに入った路面の飲食店などで徐々に賑わいを取り戻している。

   昼食を取りながら、この街に派遣されてきた中丸勝典氏の現在の心境を聞いた。

「震災後、自分でもなにか被災者の役に立つことができないかと思い、南相馬市にボランティアで訪れるようになりました。仕事の休みを使って通っていたのですが、どうしても自分のなかに半端な気持ちが残った。そんなときに役所で派遣の募集があり、"我が意を得たり"と応募しました。以前には障害福祉を担当していて、社会的弱者、身体的弱者の方々の支援をする立場だったので、ボランティア自体に違和感はありません。でも、こういう派遣も人を助けるためにやっていると自負していたのだけど、それによって自分も救われている、高められているなんて思うと、感慨深いものがあります」。

   それにしても、家族と離れ単身赴任までして遂行したことに対する疑問は残る。彼は20代30代の若手ではない。もう定年が目前の歳である。

「祖父が職業軍人で、父もその影響を受けた公務員でした。そのせいか、家では戦争映画を観ては主人公の生き様に共感していた。もちろん、戦争ではないけれど、僕は組織の一員として辞令が出ればどこへでも行き、任に当たります。カッコつけるわけじゃありませんが、"任務"とか"ミッション"って言葉に昔から惹かれるんです(笑)」。

2017年4月にオープンした陸前高田の中核となる大型商業施設「アバッセたかた」。
2017年4月にオープンした陸前高田の中核となる大型商業施設「アバッセたかた」。

僕たちは原風景を二度失った

   午後、街の東側の地区につくられたあるコミュニティスペースを訪ねた。週末である今日は、盛岡からやってきたミュージシャンがジャズの生演奏を聞かせるのだという。舞台のある明るくウッディなスペースで、お客さんは地域の方々が10人ほど。みんなでお茶を飲みながら静かに音楽を聞いている。

   演奏後の談笑で、何人かの地域の人と話をした。こんな年配の方の言葉が印象に残った。

「俺たちは二度原風景を失った」。

街に音楽がある。コミュニティスペースに活気が生まれている。
街に音楽がある。コミュニティスペースに活気が生まれている。

   昭和の高度経済成長は街を発展させ、こどもの頃に親しんだ地域の原風景を次第に変化させていった。それは悲しくもあり、またどこか誇らしいことでもあった。そして、その発展の積み重ねられた昭和の故郷の原風景が、津波によって全部流された。彼らが見ていた思い出の風景は完全に消え去ったのだ。

   震災から7年。あきらかに外野には伝わっていないことがある。そして、わかりやすく古い、みんなが「懐かしい」と消費し尽くそうとするものは、もはやこの街にはない。とにもかくにも、陸前高田は生まれかわろうとしている。長い間、ためらっていた被災地だが、来てよかった、わたしはそう思った。(後編へ続く)【『地域人』(第32号、第33号)(大正大学出版会発行)より転載】

案内役を務めていただいた陸前高田市役所農林課の派遣職員(当時)、中丸勝典氏
案内役を務めていただいた陸前高田市役所農林課の派遣職員(当時)、中丸勝典氏

中丸謙一朗

今回の筆者:中丸謙一朗(なかまる・けんいちろう)

コラムニスト。1963年生。横浜市出身。マガジンハウス『POPEYE』『BRUTUS』誌でエディターを務めた後、独立。フリー編集者として、雑誌の創刊や書籍の編集に関わる。現在は、新聞、雑誌等に、昭和の風俗や観光に関するコラムを寄稿している。主な著書に『ロックンロール・ダイエット』(中央公論新社、扶桑社文庫)、『車輪の上』(枻出版)、『大物講座』(講談社)など。偽善や冷笑に陥らない新たな観光的視点を模索中。全国スナック名称研究会代表。日本民俗学会会員。最近の旬は筋トレと東北泉(山形)。
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