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戦時中の手榴弾が今も大量放置されている、埼玉の川原に行ってみた

Jタウンネット編集部

Jタウンネット編集部

2015.10.27 06:00
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製造期間は約1年

それにしてもなぜ陶器で手榴弾を造ろうとしたのだろう。
通常の手榴弾は金属製だ。内部の爆薬が発火して炸裂すると、爆風と金属の破片が周囲に広がり、数メートル以内にいる人を殺傷する。
鉄製の筒でないと殺傷能力は大幅に低下するのだが、戦争末期の旧日本陸軍は物資不足にあえいでいた。

遺棄現場近くにあった浅野カーリット埼玉工場が製造にあたった。1939年から操業を開始した同工場は、導爆線や発煙筒、曳光弾(えいこうだん)、柄付手榴弾などを製造していた。ドイツに輸出していた時期もあったが、やがて旧日本軍の下請け工場となる。

1944年夏頃から生産を始めたのが「四式陶器製手榴弾」と呼ばれる兵器だ。滋賀県甲賀市信楽で焼かれた陶器が川越まで運ばれ、工場で火薬を詰められ、東京第一陸軍造兵廠川越製造所(埼玉県ふじみ野市)に納入された。
発掘する人が後を絶たないのは、手榴弾が信楽焼で、その価値を認める人もいるからだ。

川越市立図書館で映像資料「陶製『手榴弾』」を視聴した。当時働いていた元工員の証言シーンがあった。

「漏斗で火薬を入れ、割りばしで突く作業だった。(今振り返っても)非能率で幼稚だった」
「むなしいほど爆発力が小さかった」

終戦後、今度は手榴弾の解体作業に人々は駆り出される。一日分の労働で土地400平米がもらえたそうである。

筆者は発掘作業をすることなく、撮影だけ済ませ、先人の苦労に思いをはせながら現場を離れた。

周囲を歩いていると、産業廃棄物等の処理施設や資材置き場が多いことに気づいた。昭和とくに戦中は遠くなるばかりだが、なぜか「廃棄物」でつながっているような気がした。

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