なぜ取り壊されないの? 鳥取にある「通行止め」の古い橋が、いつまでも残り続けている理由
現地に行くと増える謎
薮津橋には長い歴史がある。米子力研究所さんも参照した鳥取県の県土整備部技術企画課のウェブサイトによると、最初にこの地域に橋が架けられたのは1833 (天保4) 年だった。
庄屋(村の首長)・船越孫四郎氏の尽力によって建設されたその橋は「孫四郎橋」という名前で、4回の架け替えと2度の大破損による補修を行いながら、使い続けられた。
その孫四郎橋の役割を引き継いだのが、1885(明治18)年に県道の敷設に伴って付近に新設された初代薮津橋だ。孫四郎橋はその翌年に大洪水で流失したという。
下流で見つけた遺構は「未完の五代目孫四郎橋」ではないか、と米子力研究所さんは考えている。
初代薮津橋の遺構から始まった研究はどんどん深まり、孫四郎橋も対象に。ただの廃橋にしか見えなかった薮津橋は、調べれば調べるほど発見があり、そしてまた謎も現れる、なんとも奥深い世界のようだ。
改めて触れておきたいが、これらの研究はあくまで個人の趣味。そこまでして薮津橋やその周辺に情熱をささげられるのはなぜか。米子力研究所さんはこう説明する。
「歳月を重ねた土木構造物として見た目が美しいということ。そして先人の残した情報が比較的豊富であり、またその研究については不十分であるという点に自由研究の手ごたえと面白味を感じています」
米子力研究所さんのように、熱心に薮津橋に愛を注ぐ人がいる――これは使われなくなった橋が今も残り続ける理由の一つだ。日野町建設水道課の職員はJタウンネット記者の取材にこう話す。
「橋が取り壊されないのは、歴史的構造物であるのが1つ。さらに、今でも写真を熱心に撮られるファンの方がいるのも残している要因です」
米子力研究所さんも「調べ続けても新たな謎の増えていくこの自由研究テーマに終わりはマジでありません」とさらなる研究に意欲を燃やしている。橋としての役目は終えても、人々がその存在を愛している限り、薮津橋は姿を保ったまま、川の上にあり続ける。