なぜ取り壊されないの? 鳥取にある「通行止め」の古い橋が、いつまでも残り続けている理由
鳥取県の南西部にある日野町。この町を流れる日野川に今では使われなくなってしまった橋が架かっている。
名を、「薮津橋(やぶつばし)」という。
1949年5月に竣工された鉄筋コンクリート造の橋で、88年から車両通行止め(歩行者は通れるが、老朽化のため通行はお勧めできない)となってしまっている。極端に古いわけではないが、かといって現役の橋でもない。言ってしまえば、ただの廃橋に過ぎない。そんな橋の魅力にすっかりやられてしまった人がいる。
鳥取県西部の水力や砂防・郷土史などについて調べ、ツイッター(@beishiryoku_Exp)やブログで発信している「米子力研究所」さんだ。
Jタウンネット記者はインターネット上で鳥取の情報を調べている時に、米子力研究所さんによる薮津橋についての研究を偶然見かけたのだが......。全国的に有名な橋でもないのにどうしてそんなに熱心に調査を続けているのか、正直、疑問に思ってしまったのだ。
そこでJタウンネット記者は米子力研究所さんを直撃。薮津橋の魅力を教えてもらうと、奥深い世界が見えてきた。
偶然の出会いが研究への道を拓いた
米子力研究所さんは、昭和の時代から薮津橋の存在を知っていたが、特に興味は持っていなかった。しかし、2016年にたまたま薮津橋に立ち寄った際にある物を見つけてしまったことで意識が変わる。
「橋の下にさらに古い橋の遺構があることに気づいて、興味を持ちました」(米子力研究所さん)
橋の下にある、古い橋。それは一体、何なのか。この発見をきっかけに、米子力研究所さんは薮津橋の歴史を調べ始める。最初はインターネット上で情報収集を行ったが、決定的な情報が見つからなかった。
そこで図書館で郷土史を読み、現地で記述の妥当性を確認し、さらに別の書誌にあたり......という作業を何度も繰り返したという。
その結果わかったのは、現在の「藪津橋」は2代目で、その下にあった以降は初代の藪津橋だということ。現存する写真などと見比べて「間違いない」と判断したそうだ。
そして米子力研究所さんは現地調査をくり返すうちに、2代目薮津橋や初代藪津橋の遺構から20メートルほど下流の離れた位置にまた別の遺構も発見。それらが何のために使われていたものなのかも丁寧に調べていった。
現地に行くと増える謎
薮津橋には長い歴史がある。米子力研究所さんも参照した鳥取県の県土整備部技術企画課のウェブサイトによると、最初にこの地域に橋が架けられたのは1833 (天保4) 年だった。
庄屋(村の首長)・船越孫四郎氏の尽力によって建設されたその橋は「孫四郎橋」という名前で、4回の架け替えと2度の大破損による補修を行いながら、使い続けられた。
その孫四郎橋の役割を引き継いだのが、1885(明治18)年に県道の敷設に伴って付近に新設された初代薮津橋だ。孫四郎橋はその翌年に大洪水で流失したという。
下流で見つけた遺構は「未完の五代目孫四郎橋」ではないか、と米子力研究所さんは考えている。
初代薮津橋の遺構から始まった研究はどんどん深まり、孫四郎橋も対象に。ただの廃橋にしか見えなかった薮津橋は、調べれば調べるほど発見があり、そしてまた謎も現れる、なんとも奥深い世界のようだ。
改めて触れておきたいが、これらの研究はあくまで個人の趣味。そこまでして薮津橋やその周辺に情熱をささげられるのはなぜか。米子力研究所さんはこう説明する。
「歳月を重ねた土木構造物として見た目が美しいということ。そして先人の残した情報が比較的豊富であり、またその研究については不十分であるという点に自由研究の手ごたえと面白味を感じています」
米子力研究所さんのように、熱心に薮津橋に愛を注ぐ人がいる――これは使われなくなった橋が今も残り続ける理由の一つだ。日野町建設水道課の職員はJタウンネット記者の取材にこう話す。
「橋が取り壊されないのは、歴史的構造物であるのが1つ。さらに、今でも写真を熱心に撮られるファンの方がいるのも残している要因です」
米子力研究所さんも「調べ続けても新たな謎の増えていくこの自由研究テーマに終わりはマジでありません」とさらなる研究に意欲を燃やしている。橋としての役目は終えても、人々がその存在を愛している限り、薮津橋は姿を保ったまま、川の上にあり続ける。