「被災地を観光する」岩手県陸前高田市【後編】:造成地に未来を描く 陸前高田にかけられた橋
過程の積み重ねが大きな結果を生む
1977年、わたしの6歳年長の「兄貴分」である勝典さんが、この年に公開された戦争映画『遠すぎた橋』(監督・リチャード・アッテンボロー)を観に連れて行ってくれたことは、冒頭に記した。今回の原稿を書くにあたりひさしぶりに見直してみた。行く手を阻まれながらも「アルンヘムの最後の橋」を目指す無謀とも言える「マーケット・ガーデン作戦」は、上層部の思惑に振り回され多くの犠牲を伴いながらも遂行された。その様子は壮観であると同時に大きな無力感を生み出し、また、戦争という狂気があたりまえに存在していた時代背景に改めて注意を引く。
人は既成概念に捕らわれる。田舎の景色とはこういうもの。戦争は起きるもの。すべては既成概念であり因習だ。修正の機会を逸した因習は成長を阻害し、次なる世代が生み出す感動や郷愁の邪魔をする。任務に絶対の正解はない。だが、目的を見失わず事態を打開しようとする行動のひとつひとつが積み重なれば、それはけっして「遠すぎた橋」にはならない。
勝典さんは言う。「ボランティアはある意味自己満足の世界かもしれません。でも、そこには自己満足を超えて果たさなくてはならないものがある。たとえそれが小さな成果でも精一杯やったという思いは大事にしたい。最近の歌に、人生を紙飛行機に例えた歌(AKB48『365日の紙飛行機』)があります。わたしはなぜかそれに惹かれました。まっすぐな距離を競うより、寄り道をしながらもどう飛んだかどこを飛んだのかが大切、そんな歌詞を聞いて、ああ自分のやったことは間違っていなかったのだなと少しだけ安心しました」。中丸勝典氏は、3月いっぱいで陸前高田勤務の任を解かれ、無事定年退職となった。
陸前高田は、いまはまだ遠い復興への途上にある。だが、震災から7年という年月が経った街を、まるでラベルを貼って戸棚に放り込むかのように「被災地」と呼び続けることにも違和感がある。この7年の間、住民たちが作り上げてきた「造成地」としての新しい街を、今後いったいどのような色に染め上げていくのか。
「やはり(被災、二次災害による死亡、他府県への移住などによる)人口減少の進行が深刻です。ですから、市としての大掛かりな復興事業を考えることも大事ですが、人口規模を見据えた生活基盤の整備、それからなによりも、そこに住む人々が地元に誇りと愛着を持って暮らしていけるような地域コミュニティの再生が重要だと思います」。
人のこころが離れたらおしまい。東教授の残した言葉が耳に残る。いくら風光明媚でも、人の息吹に勝る観光資源はない。多くの尊い人命が失われたことに改めて深い悲しみを覚えた。【『地域人』(第32号、第33号)(大正大学出版会発行)より転載】