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消失する日本の往来――「消滅可能性都市」の現在/十津川村
第2回 消えゆく「山仕事」、消えた映画館

福岡 俊弘

福岡 俊弘

2017.05.28 11:00
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活気と活況、そして消えた映画館

   久保隆さんは、この十津川に生まれ、十津川で育ち、76歳(インタビュー当時)になる今日まで十津川に留まり、村を見続けてきた。終戦、2つの大きなダム建設、村の発展と衰退。久保さんの目に映った十津川村の往来はどのようなものであったか、十津川温泉のバス停から山側に、急な斜面を2,30メートルほど上がったところにある久保さんの自宅でお話を伺った。

久保さん宅への道は急な階段。地元の人はスタスタと上っていく。

久保さん宅への道は急な階段。地元の人はスタスタと上っていく。

「このへんは戦争と言っても爆撃もなし。まあ、(戦争は)ラジオで聞くくらいのもんですわ。だから、終戦を知ったのは1日遅れの8月16日の夕刻でした。どうも、戦争が終わったらしい、と(笑)」

   まさに「雲煙の中」。が、やがて村には大きな変化が訪れる。久保さんが高校2年生のとき、ダムの工事が始まったのだ。通学していた十津川高校へは自転車で20分ほどの距離だったが、ダム工事のため街道が使えなくなり、2年生と3年生のときは山を越えて徒歩で通ったという。

久保隆さん。2011年の大水害のときは、大雨でダム湖の水面がみるみる上昇していくのを自宅から眺めていたそうだ。公営の温泉に設けられた東屋の屋根がぷかぷか浮いているのを見ても、「別に不安なことはなかったねえ」と。この村の人はよほどことがない限り慌てたりしない。

久保隆さん。2011年の大水害のときは、大雨でダム湖の水面がみるみる上昇していくのを自宅から眺めていたそうだ。公営の温泉に設けられた東屋の屋根がぷかぷか浮いているのを見ても、「別に不安なことはなかったねえ」と。この村の人はよほどことがない限り慌てたりしない。

   久保さんは高校卒業後、奈良市内の大学に進学する。久保さんが十津川を離れたのは後にも先にもその4年間だけだ。

「バスで五條まで行って、電車に乗り継いで奈良まで行くんです。バスに乗っている時間が4時間半くらい。電車は1時間くらいですわ。で、そのバスがね、ダム工事の真っ最中だったもんですから、行きも帰りもダムの作業員でいっぱいでぎゅうぎゅう詰め。朝一番のバスに乗ろうと思ってバス停に行ったら、もういっぱい人が並んでて......」

   当時の十津川村は、大勢の工事関係者や建設作業員で賑わっていたのだという。

「ちっちゃな映画館があって......あ、パチンコ屋もありましたね(笑)。飲み屋が一番多かったですが」

   奈良の大学(奈良教育大学)を卒業後、久保さんはまっすぐ十津川村へ帰ることを選択する。奈良市内で「10年ほど働いて町を経験してからこちらへ帰る」ことも考えたという。が、結局、久保さんはそうせず、生まれた家に戻り、教員として十津川の中学校で働き、十津川で結婚し、十津川で3人の子供を育て、十津川で定年を迎えた。もし、奈良に残ることを選択してたらどうだったでしょうね? と問うと、

   「それは私にもわかりません。でもまあ、結果的にこちらで楽に幸せに一生を送ることができたと思います」と。"幸せに一生を送る"――そんな重い言葉があっさりと笑顔の中から出てきた。

   教員時代の教え子の卒業後の進路について聞いてみた。

「教師になってから最初の10年間は、中卒の子供が"金の卵"と言われた、そんな時代ですわ。奈良県下の繊維産業から、特に女生徒は引っ張りだこで、親のところはもちろん学校にも企業の人がよう来てましたね。だから、みんな村を出て行くんです。で、ほとんどは向こう(村外)で結婚して、こっちに帰ってきても仕事が少ないですから。特に女の子はほとんど仕事がそのころはなかったですわ」

   男生徒は、村が林業で潤っていた時期は「山仕事」をするために十津川に残る子が多かったのだそうだ。

「植林やら伐採やら、そういう山仕事がいくらでもあったんです。高度経済成長で材木がいくらでも売れましたから」

が、先に述べた「外材の流入」によって、「木を切ってもほとんど売れなくなった」と。若い人たちは林業を諦め、仕事を求めて村の外に出て行ったという。この話をしていたときの久保さんは、少し寂しそうに見えた。


   インタビューはこのあと、初めてテレビを買ったときのこと、3人のお子さんの話、伊勢湾台風の体験、そして2011年の大水害のことなど、話は尽きなかった。中でも久保さんがその日一番の笑顔で話し始めたのが、十津川郷士の話だった。「このへんはみんな武士の位だったんですよ。だから苗字を昔から持っとったんです。槍とかもありますよ」。鳥羽伏見の戦い、天誅組、久保さんの話は、日本史の世界を縦横無尽に駆け巡った。


   久保さん宅でのインタビューを終え玄関を出ようとすると、久保さんが「柿でも持っていかんか」と声をかけてきた。久保邸は、村を貫く国道168号線の脇からやや急な坂を2,30メートルほど上がった途中にある。その斜面にはいくつもの柿の木があって、その日はほどよく熟した柿の実が数え切れないほどなっていた。久保さんはさくさくと柿の林に入って、ひとりでは食べきれないほどの実をとった。それをすべて土産にもたせてくれた。柿のオレンジ色が、十津川の山並みの深い緑によく映えていた。幸せに一生を送る――その言葉の重みをもう一度噛みしめた。

久保さん宅にテレビがやってきたのは1972年のことだったという。日本の平均からすると10年近く遅いのだが、「昔はテレビがあっても映らんかったから」と笑う。屹立した山々はテレビの電波をも拒んでいたのだ。今は、ケーブルテレビで鮮明な画像が映る。

久保さん宅にテレビがやってきたのは1972年のことだったという。日本の平均からすると10年近く遅いのだが、「昔はテレビがあっても映らんかったから」と笑う。屹立した山々はテレビの電波をも拒んでいたのだ。今は、ケーブルテレビで鮮明な画像が映る。

   帰りに、久保さんの話にあった、映画館があったであろうと思われる場所に行ってみた。ダム湖のほとりにあるその場所はカラオケ屋があるのみで、映画館を彷彿させるものは何もなかった。

かつて映画館があったと思われる場所に行ってみたが、それらしい跡は残っていなかった。今、村には映画館もパチンコ屋もないが、特に不便はないという。「隣の町まで行けばいいので」と、また笑われた。

かつて映画館があったと思われる場所に行ってみたが、それらしい跡は残っていなかった。今、村には映画館もパチンコ屋もないが、特に不便はないという。「隣の町まで行けばいいので」と、また笑われた。

>第3回へ続く

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筆者:福岡俊弘

編集者。1957年生。早稲田大学卒。1989年、アスキー社入社。コンピューター情報誌『EYE・COM』編集長を経て、1997年『週刊アスキー』を創刊、同誌編集長。TBSラジオ『スタンバイ』のコメンテーターなども務めた。現在、デジタルハリウッド大学教授。
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