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83歳筆者の〈極私的鑑賞ノート〉(番外編)...今年の映画で印象に残ったのは

ぶらいおん

ぶらいおん

2016.12.27 11:00
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公式サイトより
公式サイトより

本コラム内の不定期シリーズとして続けている「極私的鑑賞ノート」。普段は過去に観た作品をぶらいおんさんに振り返ってもらっているが、年の瀬ということもあって、今回は2016年に観たもののなかで、印象深かった作品を挙げてもらった。

ぶらいおんさんが選んだのは、「サウルの息子」と「オデッセイ」の2作。その感想は?

一見全く異質な2作だが、共通する部分も

   編集室から『今年、2016年に観た映画(など)で印象に残ったもの』という、本コラム・テーマの提案があった。

   それで、1年を振り返ってみたところ、どうも映画は余り沢山観ていない。アートの展覧会では、地元和歌山の外、大阪、京都、神戸、そしてこの関係では、どうしても本命となる東京の美術館には、可成り足繁く通った、と思う。

   しかし、こちらを書くと、纒まりが附かなくなるだろうから止めることにして、矢張り映画の方を、筆者の不定期連載「極私的鑑賞ノート」の番外編として書くことにした。

   ところが、歳の所為もあるのか?直ぐに頭に浮かんだ映画を、今年観た筈と思っても、調べてみると、昨年末だったりしたので、改めて間違いなく、今年観た、と確認出来たものの中から二つ選んでみた。

   第1は2015年製作のハンガリー映画『サウルの息子』で、第2は矢張り2015年製作のアメリカ映画『オデッセイ』である。

   以下の内容は両映画の公式サイトを参照し、データ的には専らウィキペディアの記述を利用しながら、これに筆者の記憶や所見を加えながら再構成したものであることを、予めお断りして置く。

   (1)『サウルの息子』は、大阪十三のシアターセブンで、春、連休前後に観た。この映画は一言で言えば、実に暗く、重苦しい作品である。

   筆者の好みから言えば、余り好きな映画とは言えない。それでも、心にズシンと来る作品であることは間違いない。

   内容は、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所でゾンダーコマンド*の一員として死体を処理していたユダヤ系ハンガリー人ウースランデル・サウル (ルーリグ・ゲーザ) に起きる一日半の出来事をドキュメンタリータッチで描いている。

*(注)収容されているユダヤ人の中からナチスが選抜した、同胞であるユダヤ人の死体処理に従事する特殊部隊のことであるが、それらのゾンダーコマンドもまた、数ヶ月後には、他のユダヤ人と同じ運命を辿ることになる。

   映画は、強制収容所内で行われている作業を、敢えて目を背けること無く冷徹に映し出して行くので、「人間もここまでやるか?」と本当にやりきれない気持ちにさせられる。だから、このような生と死の極限の世界では、一切の人間的な感情や信念までも失われてしまうのでは無いか?と考えるが、実はそうでも無いことを、この映画は示していて、改めて「人間とは一体、何なのか?」と深く考えさせられてしまう。

   ユダヤ人の虐殺が、この収容所の仕事であるから、「シャワー」と称して全員(無論、女性をも)素っ裸にして、ガス室に送り込むのが、ゾンダーコマンドの仕事なので、彼らは無論、送り込まれて行く人々の運命は熟知している。だが、無表情に、監視のナチス隊員に命じられるままに、ガス室行きの同胞ユダヤ人をせき立てる。

   そして、一定時間後、毒ガスによって始末されたユダヤ人達の死骸を大急ぎで片付けねばならない。次に、処理すべき一団が待っているからである。

   無表情に、憑かれたように仕事を続ける、この映画の主人公ウースランデル・サウルの、普通の人間としての感情を全て押し殺したような様子が(やゝオーバーに言えば)鬼気迫るように感じる。

   ところが、或るとき、サウルは少年の死体を見つけ、それを自分の息子の遺体だと思い込む*1。少年はガス室に送られた後もまだ息をしていたため、解剖の対象に指定される。サウルは少年の体をユダヤ人の囚人医師ミクローシュ (ジョーテール・シャーンドル) に届けるよう命令されるが、彼に頼み込んで解剖が行われるのを阻止する。そしてサウルは自分の息子だと信ずる死体にユダヤ教に則った埋葬*2を施すため、ラビ(ユダヤ教の聖職者)を探すことを決心する。

*1(注) 実は、サウルは結婚して家庭を持っているわけでは無い。従って、彼が息子だ、と信ずる子供は、どうやら同じ場所にある女性収容所に収容されているエラ (ヤカブ・ユリ) という女性との間に出来た子供らしいことが映画の中では暗示されている。
*2(注) ユダヤ教では遺体を傷つけることを嫌う。完全な状態で、埋葬(土葬)して甦りに備えるわけで、解剖に付したり、火葬したりすることを回避する。

   サウルもエラも密かに収容所内で計画されている反乱の同志であって、サウルは同じゾンダーコマンドの隊員アブラハム (モルナール・レヴェンテ)から指示され、エラから火薬を受け取りに行き、短く「息子」のことを伝え合う。

   サウルは女性収容所から戻る途中、収容所に着いたばかりのハンガリー系ユダヤ人の大群に出会う。彼らは歩かされた先の森で、射殺、焼却される運命にある。サウルはここでもラビを探そうとすると、ラビだと名乗る男ブラウン (トッド・チャーモント) に出会う。サウルは彼にゾンダーコマンドの服を着せて身元を偽り、収容所に連れ込む。

   その夜、サウルは親衛隊曹長ヴォス (ウーヴェ・ラウアー) に呼ばれ、食卓を片付けるように命令される。その部屋でカポ*長のビーデルマンが囚人の名前のリストを書いてヴォスに提出するよう命令されているのに遭遇し、サウルは自分の所属する部隊の死期が近いことを覚る。

*(注)労働隊においては囚人の中からカポ(Kapo)が任命された。カポは、看守の親衛隊員が就任する労働隊指導者の下で労働隊の他の囚人の監督を行う。

   ビーデルマンが親衛隊によって殺されたことが分かると、アブラハムら囚人たち同志は反乱を開始する。サウルも息子の死体を抱えて、ブラウンや他の囚人たちとともに収容所を脱出し、森へ逃げ込む。

   ここで、サウルは死体を埋葬しようとするが、ブラウンはカッディーシュを暗唱できず、サウルは彼がラビではなかったことを知る。

   追手が来るのを察知したサウルは、川に逃げ込むが、その際、無念にも息子の死体は彼の手から滑り落ち、水流にのみ込まれて、流れ去る。

   サウルたちは森の中の納屋に逃げ込み、ポーランドのレジスタンスとの合流を画策する。

   しかし、サウルは、一人の農民の少年が、納屋の中の彼らを覗き込んでいるのを見つけ、その少年をじっと見詰め、実に優しい表情で微笑む。もしかしたら、少年はサウル達の密告者かも知れないのに...。

   と言うのは、その少年が納屋から離れるや否や、武装した親衛隊が納屋に向かい、激しい銃声を浴びせかけるからだ。

   映画は森の奥に去っていく少年を淡々と追いながら幕を閉じる。

   あの時のサウルの、あの優しい、慈愛に満ちたとさえ言えるような微笑みは一体何だったのだろう?

   映画の冒頭から、サウルの表情は終始、陰鬱で、苦渋に満ち、微笑みなどは一切忘れてしまった様子で貫かれていた。それは、彼の置かれた状況からすれば、至極当然のことだし、だからこそ、この映画は重苦しく、陰鬱なシーンの連続に満ちていたわけだ。

   その状況からすると、映画終了間際の、サウルのあの「微笑」は、正直、筆者の腑に落ちない。

   想像すれば、あの時点のサウルは、全ての希望も、目的も失って挫折していた筈だ。あんなに苦労して、息子をひたすらユダヤ教の教義に則って埋葬することを願い、己の命を危険に曝してまで、努力したのに、明らかにその願いは最後には断たれてしまった。その上、彼自身がポーランドのレジスタンスと合流しようとした道も、全く彼らとは無関係な第三者(農民の少年)に覗かれてしまったことで、直ちに失敗に帰したことを悟ったに違いない。

   とすれば、部外者に対するあの優しく、柔らかな微笑みは、自分の苦しみは、もう、ここで終わらせて貰えるのだ、という喜びと、感謝の念にも似た感情でもあったのだろうか?

   それとも、サウルが微笑みを向けた、あの少年の表情の中に、彼が命を懸けてまで、ユダヤ教に則り、葬ろうと努めた彼の息子の面影を認めたのだろうか?

   些かの無理を承知で、筆者は、この後者の考えを採りたい、と思う。或る種の違和感を覚えさせるほど、ここでのサウルの微笑は(ここまでの映画を貫く彼の苦渋に満ちた表情とは)隔絶していたからだ。

   あるいは、どんなに暗く、酷い状況に置かれようとも、人は必ず、人間性を取り戻すものだ!という監督のメッセージが込められているのであろうか?

   因みに、『サウルの息子』は、第88回アカデミー賞 最優秀外国語映画賞、第68回カンヌ国際映画祭 グランプリ、第73回ゴールデン・グローブ賞 最優秀外国語映画賞をそれぞれ受賞している。

   大分、こちらにウェイトを掛けてしまったようだが、第2の『オデッセイ』にも、出来るだけ簡単に触れて置こう。

   (2)『オデッセイ』は、多分、『サウルの息子』とは、余り離れていない時期に、イオンシネマ和歌山で観たように記憶している。

   この映画は近未来、もしくは現在でも起こりうる宇宙船に関わる出来事を描いている。(邦題英語表記: ODYSSEY, 英語原題: The Martian)は、2015年のアメリカ合衆国のSF映画である。アンディ・ウィアーの小説『火星の人(英語版)』(2011年出版)を原作とし、監督はリドリー・スコット、主演はマット・デイモンが務める。火星に一人置き去りにされた宇宙飛行士の生存をかけた孤独な奮闘と、彼を救いだそうとする周囲の努力を描いたSF映画である。

   筆者の好みから言えば、こちらの方が娯楽として楽しめる。

   主人公である、宇宙飛行士マーク・ワトニー(マット・デイモン)は、宇宙探査船のクルーとしてミッション(火星に対する有人探査計画であるアレス3)に従事していたが、自分の意志とは関わりなく、或るとき事故により意識を失っている間に、地球上の軌道へ帰還するためのヘルメス号に乗り遅れ、無人の地である火星に1人取り残されてしまい、ヘルメス号は出発してしまう。

   この後、地球からの救助隊が直ぐに到着する見込みは全く無い。しかし、マークは、残された環境で、わずかな物資を使って、色々工夫し、何とか生き延びて、救援を待とう、と考える。

   この状況は、時代は異なるが、我々がよく知っている「ロビンソン・クルーソーの漂流記」で、主人公が置かれた環境と類似している。

   マークは持ち前の植物学者としての知識を活かし、前ミッションから残留保存されていた資材を材料に水、空気、電気を確保すると、さらに火星の土とクルーの排泄物をもとに耕作用の土壌を用意し、ジャガイモの栽培に成功する。

   この辺りの描写は、一応大学では「化学」を学び、科目では「生物」を得意としていた筆者からすれば、興味津々で、マークが地球上とは異なる自然環境で、科学の原則に従いながら、色々試行錯誤を重ねて行く、という点でなかなか興味深かった。

   こんな状況の下で、次のミッションであるアレス4が遂行されるまでの4年間を生きのびようとするが、火星の厳しい環境が次々と襲いかかる。マークは残置されていたマーズ・パスファインダー*を見つけ、その通信機能を回復させて地球との通話に成功する。

*(注)実際に、アメリカ航空宇宙局(NASA) JPLがディスカバリー計画の一環として行った火星探査計画、またはその探査機群の総称である。1996年12月4日に地球を発ち、7ヵ月の後、1997年7月4日に火星に着陸した。

   マークがNASAとのコミュニケーションを確立できたことは、非常に大きい。今や、マークは絶対的な孤立を脱することに成功した。

   NASAでは、マークのために追加の食料などを送ることを決めて急遽、輸送のロケットを打ち上げるものの、発射時に失敗してしまう。NASAのロケットによる支援ができなくなった時、中国国家航天局から助けが提供され、救助のための輸送を中国のロケットが引き受け、地球軌道に乗せることに成功する。

   つまり、マークの存在は、その母国アメリカだけの問題では無く、全世界的な人類の関心事となったわけである。

   実は、この後にも、次のような紆余曲折がある。

   NASA長官で最高司令官であるテディ・サンダースは地球帰還中のアレス3のクルーたちを、このまま安全に帰還させるか、もう一度火星に戻ってマークを救出させるかの二者択一に迫られることになる。

   これに対し、ヘルメス号に乗るクルーたちは全員一致の意見で長官の指令に反対し、地球上の軌道でスイングバイを行いながら中国のロケットで届けられた追加食料などを受け取ると、火星軌道に乗ることにする。

   一方で、マークは、ヘルメス号が火星上の軌道に乗る日に合わせて、既にアレス4用に送り込まれていたMAV (Mars Ascent Vehicle) に乗り込んで、仲間のクルー達の待つヘルメス号とドッキングせねばならない。

   これについても、マーク・サイドにもヘルメス号・サイドにも、想定外の事態が起こるのだが、両者共命がけで努力と工夫を凝らし、何とかそれらを乗り越え、最終的に、この救出ミッションは成功し、マークを含めたクルー全員が地球に帰還することが出来た。

   そこら辺りは、映画としてのハラハラどきどきの見せ場であるが、現在、実現可能な科学的事実、実績を踏まえつつ、近い将来達成し得るであろう科学的な課題を適当に織り交ぜていて、そういう方面に関心や興味を有する者にとっては、なかなか面白い映画であった、と言えよう。

   因みに、第87回ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞(2015年)では、『オデッセイ』は作品賞トップ10内に選ばれ、監督賞リドリー・スコット 、主演男優賞マット・デイモン、脚色賞ドリュー・ゴダード がそれぞれ受賞している。

   余談であるが、この時の外国語映画賞は『サウルの息子』が受賞している。

   ここで取り上げた2作品、(1)『サウルの息子』と、(2)『オデッセイ』は、一見、全く異質な映画とも言えるが、登場人物達の人間としての生き方には、それぞれ考させられる、重要な問題を包含しているようだ。

   「人間」とは果たして何なのか?今後、人間の進み行く道は、どうあるべきなのか?

   幾ら、年を経て生きてみても、答えは何処にあるのか分からない?

   こうして、1年が過ぎ、間もなくまた新しい年がやって来る。今年4月から連載を始めた本コラムに目を通して頂いた読者の方々に、この場を借りて、御礼を申し上げると共に、来る年のご幸運を祈りつつ、2017年第1回1月10日公開のコラムで、再びお目に掛かれることを楽しみにして本稿を閉じることにする。

「どうぞ、皆さま、良いお年を!」

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筆者:ぶらいおん(詩人、フリーライター)

東京で生まれ育ち、青壮年を通じて暮らし、前期高齢者になってから、父方ルーツ、万葉集ゆかりの当地へ居を移し、地域社会で細(ささ)やかに活動しながら、105歳(2016年)で天寿を全うした母の老々介護を続けた。今は自身も、日々西方浄土を臨みつつ暮らす後期高齢者。https://twitter.com/buraijoh
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