都構想で「西成」の地名が消える? 大阪No.1ディープ地域の今後は
東成郡だった飛田新地
西成を有名にしているもう一つのスポットが「飛田新地」だ。1916~1918年頃、原っぱだった場所に、曽根崎や難波の遊郭が行政の指定により移転してきたがキッカケだ。大阪市内における遊郭としては後発組。
他所では見られない建物が軒を連ねるのは空襲で焼け残ったため。1958年、遊郭は料亭街に移行した。
飛田新地は料理組合の組合員によって厳しく自治管理されている。撮影しようものなら関係者が飛んできて、ただでは済まないともっぱらの噂。
その背景には、彼女たちの働いた足跡が残らないようにする=女性の再出発を容易にする――という意図がある。
ハルカス300から見る飛田新地!! pic.twitter.com/tsRPXeQZx2
— いんてぐらる (@intgrllllllllll) 2015, 4月 1
飛田で親方を10年務め、現在はスカウトマンをしている男性が書いた「飛田で生きる」(徳間書店)には、内部の人間しか知ることのできない話が詰まっている。2010年に発売された単行本は2014年に文庫化され、Kindle版も出ている。
文庫版のあとがきで著者は次のように記している。
「最近、私がとくに感じるのが、飛田で働く女の子の質が落ちているということです」
「理由は、他業種への流入です。飛田の最大の特徴は、短時間でたくさん稼げること」
「しかし最近、ホテヘルのバック率が上がっており、そちらに女の子が流れているのです」
「スカウトマンの私からすれば、飛田とホテヘル、女の子を送り込む先が二つに増えたようなものですから、うれしいといえばうれしい。一方で、100年近い歴史を持つこの街が、このまま衰退していくのではないか、という危機感を持っているのも事実です」
「この危機を乗り越えるために必要なのは、親方の営業努力だと私は考えています」
ちなみに飛田遊郭ができたときの住所は「東成郡」だった。1925年に住吉区となったが、1943年の区境調整で西成区へ移る。同じく編入された天下茶屋は大阪の下町らしい雰囲気だ。このように、西成といっても多様な顔がある。