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縄文人もツイッターユーザーも、同じ顔でニコニコ? おくるみに包まれた「赤ちゃん土偶」がとろける可愛さ

松葉 純一

松葉 純一

2022.05.05 17:00
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赤ちゃん土偶のおくるみは「編巾」だったかも?

まずは、この愛らしい土偶がどんなものなのか。三戸町教育委員会の野田尚志さんが教えてくれた。

「この『赤ちゃん土偶』が見つかったのは、馬渕川沿いにいくつか発見された縄文遺跡の一つ、沖中(おきなか)遺跡です。岩手県との県境に近い三戸町の中心部に位置しています。縄文時代後期から晩期のものと想定されています。
沖中遺跡は、出土品などから見て、集落というよりは何らかの儀式を行った場所ではないか、とも考えられます。というのは、この遺跡の東側に名久井岳という標高615メートルの山があるのですが、そこから昇る日の出を観測していたと考える説もあるようです。『赤ちゃん土偶』も、そういった儀式で用いられたのかもしれません」(三戸町教育委員会・野田尚志さん)

「赤ちゃん土偶」の大きさは、縦7センチ、横4センチで、手のひらにすっぽり入るほど。まん丸い顔、愛らしい目、大きな口、なんとも愛らしい赤ちゃんの表情が表現されている。あきらかに「赤ちゃん」だと分かる土偶は全国を見てもほとんど例がないという。また、母親を伴わない赤ちゃん単体で見つかったのも、日本初ではないかと言われているそうだ。

さらに関心を集めたのが、「おくるみ」(赤ちゃんを包む布)だ。おくるみは縄文時代から使われていたのだろうか。またどんな布だったのか? 

「編巾(アンギン)と呼ばれる技法があるそうです。麻や苧麻(カラムシ)など自然植物の繊維を材料とした編み物の技法のことです。編巾は、現代でも新潟県や福島県の山間部で伝えられているとも聞きます(『越後編巾』とも呼ばれるそうですが......)。
これは想像でしかありませんが、もしかしたら縄文時代晩期の赤ちゃんのおくるみは、編巾だったかもしれませんね」(三戸町教育委員会・野田尚志さん)
(再掲)
(再掲)

縄文時代の赤ちゃんの死亡率はかなり高かったことが想像される。赤ちゃん土偶は、我が子の成長を祈るためか、あるいは亡くした子を悼んで作られたものか、どちらかではないかという考えもあるようだ。

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