夢は、県民総「AI人材」化!? 「データサイエンス教育」への挑戦が、広島の未来を切り拓く
「県内の若者を、『AI人材』に育て上げる」
そんな夢に向かい、全力で走る県がある──ズバリ、広島県だ。
現在、同県では「ひろしまQuest」というAI人材育成プロジェクトを進行中。AIやビッグデータといったデジタルテクノロジーを活用できる人材の不足という問題の解決を目指して2019年10月にスタートした企画である。
県内の企業や自治体が抱えているリアルな課題の数々を、AI関連事業を手掛けるSIGNATE(東京都千代田区)の協力のもと、AI人材を育てるための「生きた教材」として活用。「地域の課題解決」と「AI人材育成」を同時に達成しようという革新的な取り組みだ。
そして2021年。「ひろしまQuest」は新たな段階に踏み出した。
今、広島で何が起こっているのか――Jタウンネット記者が関係者に話を聞いた。
「商船」の専門家がAI人材を育成?
これまで「ひろしまQuest」では、メインとなるAI開発コンペティションとして「プロ野球の配球予測」や「レモンの等級判定」などにチャレンジ。同時に、SIGNATEが運営するAI学習プログラム「SIGNATE Quest」を使ったe-ラーニングを無償提供し、AIプログラミング未経験の初心者から経験者までレベルに合わせて、時間や場所に囚われず自学自習できる環境を用意している。
さらに、より実践的にAI技術やデータサイエンスを学べる「ハンズオン勉強会」も開催。これは、専任講師によるグループワーク形式の演習だ。単なる座学ではなく、AI技術やデータサイエンスをより実践的に学ぶ内容になっている。
これだけ聞くと、なんとなく一般人とは縁遠い講座のような印象だが、そんなことはない。参加者の大半はAI技術についてほとんど何も知らない人たちなのだ。大学生から社会人まで様々な立場の人が集まり、年齢層もデジタルネイティブ層~50代と幅広い。
そのハンズオン勉強会で2021年度に教鞭をとったのが、広島商船高等専門学校・商船学科の教員である岸拓真(きし・たくま)先生だ。
広島商船高専では主に船舶や船員養成、海洋空間といった分野に関わる学問を教えているという岸先生。一見AIとは関りがなさそうだが......どんな経緯でAI人材育成プロジェクト「ひろしまQuest」に協力することになったのだろう。
「私はもともと、東京海洋大学大学院で商船学を勉強していました。加えて、『海洋構造物(海に浮かんでいるものすべて)の運動』や『海洋空間をどのように利用するか』といったことについて議論する海洋工学の勉強もしていました」(岸先生)
「海洋」や「気象」といった分野には膨大な観測データがあり、岸先生はそうしたデータの統計や数値解析をしていたという。
「データサイエンスが台頭している中で、統計情報をしっかりと活用していくことは、海洋空間の利用や物流といった分野でも欠かせないこと。こうした『データサイエンスの重要性』をダイレクトに伝えられる存在として、AI人材育成に関わっています」
県内で広がる意識 「AI教育を進めていかないといけない」
では、岸先生がハンズオン勉強会で教えているのは、どんなことなのか。
「例えば、Jリーグの2012年~2014年前期のデータを用いて、2014年後期の観客動員数の予測をしてみよう、という演習を行っています。
受講者には基礎となるコードと様々なデータを与え、それらを用いて様々な統計的手法でデータを推測してもらうという内容ですね」(岸先生)
「AI」や「統計」というワードからなんとなく難しい講義を想像していたが、実際にはかなり身近なことをテーマにデータ分析の演習をしているようだ。
そして、そうした講義を通じて、岸先生自身にも新たな気付きや発見があったという。
「(受講者には)アンテナ感度が高い人が結構いることに気付きました。『自分の住む県や自分の仕事に生かせるようなことをやりたい』という思いが窺える部分が非常に多かった。
そうした人たち同士が関わることで、意外な繫がりができたり意外な相談相手を発見できたり、といった場面もありました」(岸先生)
また、勉強会を開催していく中で「AI教育を進めていかないといけない」という意識を持った県内のAIやデータサイエンスに知見のある人材が集い、お互いに情報交換をするための機会や場も生まれたという。
こうした、いわゆる「講師コミュニティ」とも言うべき横の集まりが形成されることは、「AI人材育成を進めていく上でとても大事な事だと思います」。
プロジェクトを「県民の支えでやっていける体制にしていく」
岸先生が講師役になる前は、ハンズオン勉強会で教えていたのはSIGNATEのデータサイエンティストだった。
しかし今後は、岸先生のような「県内のリソース」を活用したい考え。これが、広島県が現在取り組んでいる「プロジェクトの自走化」への第一歩だ。
しかし、なぜ県内の人材を活用することにこだわるのだろう――? 取材の中でわかったのは、「自走化できる下地が整ってきたから」という背景だった。岸先生は、こう語る。
「『ひろしまQuest』のようなAI教育の企画というのは、本来であれば私たちのような教育機関が主導で始めるべきことでした。そこを県が皮切りになってやってくれたのだから、県民が連携してその活動を支えるのは当然のこと。自走化を目指すというよりは、プロジェクトを『県民の支えでやっていける体制にしていく』という次のフェーズに移行したんです」
まずは県が率先して、外部から専門家を招く形でAI人材育成プロジェクトを開始。そこにAI技術を学びたい県民や、岸先生をはじめとした県内の人材が参加しはじめたことで、広島県の中でプロジェクトを回していけるようになってきた、というわけだ。
AI学習を大学の必修授業に
広島県が成果を積み重ねてきた結果にあったのが、自走化の兆しだった。しかも、まだまだ止まらない。
県の商工労働局イノベーション推進チームの一員としてプロジェクトに携わる平河直也さんは、さらなる野心に燃える。
「プロジェクトを自走化させていくには、やはり県内のデータサイエンスに知見のある人や情報系の人材と繋がっていかなくては。岸先生とご縁が結べたように、これからももっと教育機関などを巻き込んでやっていくことで、県内のAI人材育成のコミュニティを広げていきたいです」(平河さん)
平河さんの語る「教育機関の巻き込み」。その第一歩は、すでに広島工業大学(広島市)で始まっている。
広島工業大学は2020年度後期から、「ひろしまQuest」でも使われているデータサイエンス教材「SIGNATE Quest」を活用した授業を、1学年の学生たちの必修授業として導入した。
大学でAI学習プログラムを使った授業を導入する狙いは何か。Jタウンネット記者は、同学・情報学部情報コミュニケーション学科の松本慎平(まつもと・しんぺい)教授に話を聞いた。
「(学生たちには)AIというものを飛躍的に解釈している人も多い。なので、まずは『AI』や『データ』というものをちゃんと理解してもらい、AIというのはあくまでもツールなんだということを知ってもらうのが狙いの1つです」(松本教授)
教材に「SIGNATE Quest」を使うことにしたのは、「県が使っていたから」。
「大学で勉強した知識や得た能力を、すぐ生かせる場があるというのは非常に重要。『もっと学びたい』というモチベーションになるんですよ。
そういう場を作りたいという気持ちがあったので、県に合わせてSIGNATE Questを使い始めました」
大学で授業を受けた学生が、さらなる学びを求めてひろしまQuestに参加するという事例もあるという。そして、ひろしまQuestに参加した学生は、そこで得た知識や技術を大学に持ち帰ってきて、後輩に指導する。
県と大学、それぞれの取り組みの間には、良い循環が生まれてきているのだ。
現代におけるAI人材育成の重要性とは
「ハンズオン勉強会」の運営や、大学での必修化など、広島県では着々とAI人材育成の輪が広がっている。
しかし、そもそもなぜ、AI人材育成が重要なのだろう?
岸先生によると、現代ではAI技術がどんどん進化および深化していき、社会に溶け込んでいっている。この状況の中では今後、ほぼすべての分野において、AI技術が必要になってくるという。
「簡単でもいいのでAI技術の原理をきちんと理解し、AI技術がもともと持っているリスクや留意しなければいけない事柄を知っておくことは重要です。
そうしないと、今後どんどん増えていく『AI技術を使った仕事』をする際に、正しい知識が無いばっかりに技術や機械を使いこなせなかったり、無駄に怖がったりして終わってしまう、といった事態が発生する可能性があります」(岸先生)
AI技術を上手に用いて膨大なデータを活用できれば、より効率的に作業を進められるようになったり、これまで不可能だったことが可能になったりする。しかし、そもそも「AI」がどんなものかを理解できていなければ、できることもできなくなってしまう。あるいは、危険な橋を渡ってしまうかもしれない。
技術をきちんと理解した上で仕事をスタートさせられる、あるいはストップをかけられる人が増える状態を目指すために、AI人材の育成は必要不可欠なのだ。
そんなAI人材の育成を県が主体となって行うことには、大きなメリットがある。
「一企業が主催するとなると、やはりどうしても怪しさを感じてしまう人もいる。かといって学会クラスの専門団体が主催するとなっても、一般の人にとっては参加するハードルが上がってしまう。
『県がやっている』というのは信頼性と参加のしやすさの両方をカバーできるので、受講者はもちろん、講師サイドの人も安心して参加できますよね」(松本教授)
そして「ひろしまQuest」の優れたポイントは、学ぶだけでなく実践の場も用意されていることだ。
「学生であれば授業で、社会人であればそれぞれの企業のセミナーなどで、という風に、『AIやデータサイエンスについて学ぶ』だけならこれまでもできていたんです。しかし、その学んだ知識や能力を実践できる場所というのは、それこそエンジニアなどの一部の人しか知らない閉じられた世界だった。そうした『実践の場』を『ひろしまQuest』という形でオープンな場に設けたのはすごく大きな意義があると思います」(松本教授)
受講者が「メンター」となって運営をサポート
広島県がこれまで実施してきたプロジェクトは、すでにいくつかの「成果」もあげてきている。
平河さんによると、現在「ひろしまQuest」のe-ラーニングを受講している県民の数は延べ700人以上にのぼる。
このように、AIやデータサイエンスについて学べる機会を県民に提供できていること、また「ひろしまQuest」を通じて岸先生や松本教授を初めとした県内の人材と繋がれたことなどが成果であるとした上で、
「実は、今年度にすごく嬉しいことがあったんです」
と平河さん。なんと、2019年の始動当初から「ひろしまQuest」の学習プログラムに参加していた受講者のうちの1人が、今年度は受講者をサポートする「メンター」としてハンズオン勉強会に参加しているのだ。
「『ひろしまQuest』では定期的にデータ分析のコンペティションを開催しているのですが、その方はAIやデータサイエンスについてほとんど初心者の状態から、コンペで入賞するくらいにまですごく成長してくださったんです。
もちろんご自身でも色々な勉強をされていたのですが、『ひろしまQuest』の企画を通じてすごく勉強になったと言っていただけて、『その恩返しをしたい』と、自らメンターに立候補してくださったんです。運営側として本当にありがたいことで、とても大きな成果の1つだと思っています」(平河さん)
これはまさに、広島県が目指している「自走化」を体現したようなエピソードと言えるだろう。
「ひろしまQuest」が始動してから、2022年で4年目となる。今後も広島県内でのAI人材育成が発展していくために、平河さんは「より多くの人材や団体に参加してもらえるようにしたい」と意気込む。
「これまで学んできたデータサイエンスのスキルを生かす場があるということを、広島県内のデジタルネイティブ層の方々などに知っていただきたい。そのためにも、今後はもっと『ひろしまQuest』の取り組みやこれまでの成果についてPRをしていかなければいけないと思っています」(平河さん)
教育機関を巻き込むことで、特にデジタルネイティブ層など若い世代の育成を目指す「ひろしまQuest」。広島県民の誰もが、AIやデータサイエンスを正しく使いこなせるようになる──そんな未来を目指して、広島県は今日も進み続ける。
<企画編集・Jタウンネット>