「日本のミケランジェロ」は新潟にいた 超絶技巧の彫物師・石川雲蝶の傑作に注目集まる
憧れの女性をモデルにした、艶かしい天女
魚沼市内の永林寺にも、雲蝶のユニークな作品が残されている。
永林寺は、約500年前に創建された曹洞宗の名刹。雲蝶は1855(安政2)年に永林寺を訪れ、欄間をはじめとする彫工や絵画など100点を数える作品を手掛けた。中でも欄間に施された天女の透かし彫りはあまりにも有名だ。
目が細く、鼻が高く、色白でほんのり桜色という、当時の美人の要素をこれでもかと取り入れている。天女というにはあまりになまめかしい美女の透かし彫りだ。雲蝶の才能が並外れていることが十分に伺えるだろう。天女のモデルは、雲蝶が憧れた魚沼の女性だったとされているが......。
石川雲蝶という人物像も、実は、謎に包まれている。
雲蝶は、1814(文化11)年、江戸の雑司が谷(現・東京都豊島区)生まれ。江戸彫りの石川流の本流門人であり、20代で既に彫物師として名声を得ていたとされている。
そのほとばしる才能は彫師だけにとどまらなかったようだ。漆喰細工、壁画、襖絵、組子細工なども手がけ、その作品は新潟県指定有形文化財となっているそうだ。
雲蝶が越後入りしたのは、1845(弘化2)年、30代前半の頃。三条の金物商で、法華宗総本山・本成寺の世話役だった内山又蔵との出会いが発端だったというが、江戸の一流職人が、雪深い越後にやってきたのはなぜか? もっとも大きな謎は、そこだ。さまざまな説があるようだが、定かではない。「良い酒と、良いノミ」が、越後入りの決め手となったとも言われているが......。
雲蝶は、越後三条を拠点に、魚沼をはじめ、各地で活動を広げた。内山氏の世話で三条の酒井家に婿入りし、二人の子をもうけ、家族を持ち、「越後の人」となったそうだ。そして、1883(明治16)年に没した。
幕末に輝きを放った鬼才・石川雲蝶の、渾身の傑作、どうやら見逃すわけにはいかないかもしれない。