意外と知らない? 炭酸の「ウィルキンソン」は正真正銘の国産ブランドだった
2019.11.03 11:00
海外の取引先を招いた「タンサン・ホテル」とは?
Jタウンネットの取材に答えてくれたのは、アサヒ飲料株式会社コーポレートコミュニケーション部の担当者だった。
アサヒ飲料の公式サイトには、ウィルキンソン氏は1852年、英国に生まれ、1872年、日本に渡航し、1889年、兵庫県宝塚で炭酸鉱泉を発見した、と記されている。その間、どこで、どんな仕事に就いていたのだろう。
「大阪鉄工所(のちの日立造船)を創業したエドワード・ハンター氏の精米所(兵庫新在野町)で技師として働いていました。その精米所での雇用が終了した後に天然炭酸鉱泉水事業に携わっていったと考えられます」
ウィルキンソン氏が発見した炭酸鉱泉のある宝塚は、当時から良質な鉱泉が出るところとして知られていたのだろうか。付近には、他にも、鉱泉を使った飲料があったのか?
「ウィルキンソン氏が炭酸鉱泉を宝塚で発見(1889年、明治23年)する前に、当時宝塚で温泉会社を営んでいた保生会社がラムネを製造していました。保生会社とは温泉場を開発・経営するために設立された会社のことです。
ウィルキンソン氏はその事業を譲り受け、製造設備をイギリスから取り寄せて紅葉谷工場を設立し、天然炭酸鉱泉水事業を始めました(1890年、明治24年)」
ウィルキンソン氏は、宝塚に洋式高級ホテル「タンサン・ホテル」を開業し、海外の取引先などを工場見学に招いていたそうだが、「タンサン・ホテル」とはどんな施設だったのか?
「ホテルの規模、客室数、宿泊客の数などの記録は残っていません。場所は紅葉谷工場の裏手にあり、畳とメイドさん以外は外国製のもので設えており、高水準な様式ホテルであったようです」
当時の取引先・販路はどのようなものだったのだろうか。シンガポールを拠点に東南アジア諸国に販売していたようだが...。
「シンガポール、フィリピン、中国、香港などであったようです。ロシアも一時期大きな販路であったと書かれている資料(「日本清涼飲料史」エセル・プライス寄稿「天然水の始まり」)もあります」
ウィルキンソン氏は販路開拓のために、海外各地に精力的に出かけていたようだ。日露戦争が勃発し、ロシアの取引先から代金の回収ができなくなり苦労したと、前述の「天然水の始まり」には書かれている。結局、ロシアとの取引は中止せざるを得なかったようだ。