平成最後の「10.19」―記者は川崎球場を訪れた 30年で変わった風景、変わらない熱気
わずかに残る球場時代の遺構
10.19当時に川崎球場をフランチャイズにしていたロッテオリオンズは1991年限りで千葉に本拠地を移転し、2000年限りでスタンドなども解体された。現在は「富士通スタジアム川崎」という名で主にアメフトやサッカーに使われていて、川崎市の指定管理者として川崎フロンターレが運営している。
川崎駅から15分ほど歩くと、住宅の中にそびえ立つ照明塔が現在の富士通スタジアム川崎の目印。照明塔は川崎球場時代から残っている数少ない構造物である。
午後5時頃、30年前は第1試合終盤に差し掛かった時間だが、いつもと変わらぬ住宅街の光景といった印象。それでもかつてのパリーグのチームのユニフォームを着た人がちらほら集まっている。近鉄とロッテだけでなく、阪急、南海、日本ハムとチームは様々で、チームを超えたパリーグ愛を感じさせた。 そもそも川崎球場でこのようなイベントが毎年行われているのは、スタジアムの支配人、田中育郎さんのこの球場への思いが大きかった。生粋の川崎育ちの田中さん、子どもの頃から川崎球場にも何度も足を運んでおり、思い入れは大きい。フロンターレは普段このグラウンドでサッカー教室などを開催しているが、「この場所の歴史を伝え、さらに将来につなげたい」との姿勢で川崎球場時代を懐古するイベントをしばしば開催してきた。
球場時代の設備を、当時の写真とともに見学することができた。1988年当時でも相当に老朽化が進み、オンボロ球場と揶揄されていた時代のリアルなエピソードも聞けて興味深かった。
当時のロッテの応援団員の男性もツアーに参加していて、彼の話によれば、壁が薄かったので壁越しにロッカールームにいる選手と会話ができたり、球場で売っているジュースを外国人選手が好きでよく飲んでいたり、さらにはフェンスによじ登って応援団を指揮していたりなど、今では考えられない話が盛りだくさんで、昭和末期生まれの記者には何もかもが面白い。2019年2月2日にも、このようにファン同士でざっくばらんに交流できるイベントを当地で開催予定だという。
現在は照明塔のほか、外野フェンスやバックスクリーンの一部がわずかに残っている。これらも当初は改修時に撤去される計画だったが、市の予算の関係で残されたとのこと。しかし今後も改修が進めばいずれ姿を消してしまうという。田中さん曰く、「フェンスなど設備の存続を願う気持ちがあれば、ぜひ川崎市にメッセージを送っていただければ」とのこと。
スタジアムの敷地外に出ると、細い道路を一本挟んだだけで家屋が密集する普通の住宅街になり、地元の人々が行きかう。本当に狭く、現代野球の感覚ではありえない身近さでプロ野球をやっていたことを実感させられる。
この日は球場名物だった肉うどんも復活販売。柔らかく甘めの肉と濃いめの味のつゆが素朴で、カクテル光線や応援歌、はたまた野次が飛び交う当時の球場で食べたらどんな感じになるだろうかと想像力を掻き立てられた。
ほかにもラーメンや、パイナップルの缶詰をミキサーにかけただけのジュースが球場の名物だったとのことで、田中さんも機会があればこれらも復刻してみたいと前向きだ。