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83歳筆者が考える「元日営業」...一元的なコンセンサスは生じようがない

ぶらいおん

ぶらいおん

2017.01.10 11:00
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画像はイメージです(atsushi masegiさん撮影、Flickrより)
正月

一時期、各業界に広がっていた「元日営業」拡大だが、ここ何年か、その潮流に変化が出てきた。三越伊勢丹HDなど、一部の大手百貨店などが、かつて元日に行っていた初売りを2日、3日へと後ろ倒しにしているのがその代表例だ。

近年の「ブラック労働」批判などを受けた、従業員のワークライフバランスに配慮したシフトチェンジ。一方で、客の側からすると、便利には違いない元日営業。こうした傾向への感想を、本コラムの筆者・ぶらいおんさんに尋ねてみた。

「単なる便利さ」「一方的な欲望」は我慢するべき

<元日営業は必要なのか?>

   と、単純に問われても、一般的乃至普遍的に回答することは困難なのでは無いだろうか?

   つまり、その人(と言うのは、営業者や消費あるいは利用者双方を意味する)の立場や、感性や、行動の傾向や、家族構成などによって異なるものだ、と思うのだ。

   また、業種や店の立地条件とか業態によっても異なることになるのであろう。

   筆者の立場や時代背景を踏まえた大雑把な回答としては、「元日まで営業する必要は無い」というものだ。

   ただ、ここで考えているのは、日常必要品(食材など)とか、デパートなどでの福袋とか、そう言った類の物についてのことだ。これは元々計画的に入手日程を調節できる物だし、あるいは福袋のように元日で無ければならない、というものではないからだ。

   従って、専ら、こういった物品の販売に従事するような人達は、他業種の人達のようになるべく同じように休暇を取れる方が好ましいことだろう。

   それに、消費者サイドの年齢とか、家族構成とかによっても要求は異なって来る、と考えられる。

   たとえば、筆者のような高齢者にとっては、わざわざ年始めの混雑の中を出掛けて行く必要も無いし、それより家の中でゆっくりしたい、と考える人々が殆どだろう。しかし、年齢が違えば、筆者の経験からしても、その辺りの願望は大いに異なって来る。

   これからの話は、今の時代の話では無い。飽くまでも、筆者を基準とした年代の昔の人達の標準的な願望乃至考えあるいは感じ方だ、と思って貰いたい。

   自分が高校の上級生や大学に入学したばかりの下級生だった頃には、無論、正月3が日位はなるべく家に居て、家族と一緒に過ごすことを求められるのが普通であった。それでも、本心は、一家揃ってお雑煮を祝ってしまえば、家に居るより、外へ出掛けて、気の合った友人やガールフレンド達と初詣や映画を観たり、コーヒーショップなどの飲食店へ繰り出したりしたくて堪らなかった。

   こうした状況で考えれば、電車やバスも出来るだけ頻繁に運転して欲しいし、飲食店だって、特に初詣の後にちょっと休憩したいのに、3が日は休業です、では困るわけだ。

   また、新しい家庭を持って、幼い子供達が出来たりすると、子供達は家の中ばかりでは飽きて来て「どっかへ行こうよ!」とせがまれることになる。こんなときでも、もしファミリーレストランとか街なかの遊園地などが全て休業していて、適当な場所が何処にも無いとなると、これはまた、非常に困ったことになる。子供にしてみれば、普段は遅くなってから帰って来るだけのパパが、珍しく家でゆっくりしている、この機会を逃してなるものか、ということになるのは当然の流れである。

   そういう、(つまり、こうした利用者や消費者の要求を満たす)業種や業態に関しては、どうしても3が日営業を求めたくなる傾向が生じる。無論、本来そういった場所で働く人達だって、その人の家庭では全く同じ条件であろうことは想像できるのであるが...。

   まあ、今の時代、『この1、2年ほど、あえて元日は休む、という方向性が出てきた』とすれば、それはそれでよいのでは無いだろうか。大方の人々が、その環境を受け入れ得る余地というか、それが当たり前という感覚が持てるようになったのなら、どんな職場で働く人達も、同じように正月を送ることが出来るようになるわけだし、特に東京のような大都会が、少しでも静かな時間や環境を保てるものなら、それはそれで結構、と言うことになる。

   突き詰めていけば、結局、その時代に生きる人達のコンセンサス如何?ということになるのであろう。

   ただ、筆者の考えでは、実際のところ、それ(満場一致のコンセンサス)は、なかなか難しいだろう、と思う。

   ところで、最近、少なくないと言われている、結婚しない単身者の場合は、一体どうなのだろう?と想像してしまう。

   久々の、多少まとまった時間だから、部屋にいて、ぼんやりとTV漬けになるか、購入しても、じっくり利用出来なかったホームシアターシステムで、この際、今までゆっくり鑑賞できなかった作品を腰を落ち着けて観るか?

   やっと入手した、最新のヴァーチャルリアリティゲーム三昧を堪能するか?

   単身者の特権で、何でも自分次第...、もし、金と暇さえあれば、何だってやりたいことは、遣りたい放題だ。同居する家族の意志など忖度する必要も無いし、筆者からすれば、これは究極の理想の姿だ。

   とは言え、それは飽くまで、本当に自己中で、むしろ、自ら、積極的にやってみなければ、収まらないという、徹底した精神の持ち主に限られるのかも知れない。

   大方の現実は、そんな状態とは乖離して居るのかも知れない。

   非常に消極的で、一人の時間を持て余し、比較的親しい仲間に声を掛けたくても、相手の状態を忖度し、積極的な行動にも出られず、TVにも飽き、料理を作るのも億劫だし、遠くに出掛ける気もしない、部屋に閉じこもっていても息が詰まる、となれば、取り敢えず、近くのコンビニへでも出掛けて、コミックを立ち読みするか、コーヒー販売機の珈琲を飲むか、兎に角、そこで思い付いた何かで、退屈を埋めようとするような人にとっては、常時24時間、たとえ元日であろうが、無かろうが、営業して貰わねば、(大袈裟に言って)生きて行かれない人達も居るのでは無いだろうか。

   それは、人間が或る日突然、木の股から自然発生するようなことがあるなら、別だが、人間である以上、そんなことはあり得ないので、人によって千差万別であるにせよ、多かれ、少なかれ世の中の柵(しがらみ)から完全に無縁というわけには行かないし、人々の生き方や感じ方を十把一絡げで統一することなど端(はな)から無理というものだ。

   そうなれば、近いところでは親や子供達、配偶者などの希望や要求によって、「元日営業」についての態度も変化せざるを得ないであろう。「賛成」、反対」、「不必要」などというように、一元的なコンセンサスの生じようが無い。

   殆どの人が受け入れ可能な業務や業態については、「元日営業」が解消出来るなら、した方がよいだろう。「単なる便利さ」とか「一方的な欲望」などについては、むしろ野放図に認めるより、我慢することを学び、それを習慣づけた方がよい。

   だが、現在の社会的常識や基準で、どうしても必要と考えられる仕事については、誠にご苦労様だが、元日であろうが、年末であろうが、それらに従事する方々には使命感を持って、任務を果たして頂きたい。

   以前のコラムで取り上げたテーマ<夏の暑さ今昔>でも、同じような結論を申し上げたような記憶があるのだが、<元日営業は必要なのか?>というテーマについても、一貫した答えを求めること自体に無理があるのであろう。

   それは、種々のファクター、時代の要請、人々の生き方の多様性に大きく影響されざるを得ない問題なのだから...。

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筆者:ぶらいおん(詩人、フリーライター)

東京で生まれ育ち、青壮年を通じて暮らし、前期高齢者になってから、父方ルーツ、万葉集ゆかりの当地へ居を移し、地域社会で細(ささ)やかに活動しながら、105歳(2016年)で天寿を全うした母の老々介護を続けた。今は自身も、日々西方浄土を臨みつつ暮らす後期高齢者。https://twitter.com/buraijoh
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