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AI(人工知能)をめぐり82歳が考える(3) プログラミング義務教育化に望むこと

ぶらいおん

ぶらいおん

2016.07.19 11:00
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前回前々回とお送りしたぶらいおんさんの「AIを考える」も、今回でひとまず完結である。

取り上げるのは、いつか訪れるとされる「シンギュラリティー(技術的特異点)」と、2020年度からの導入が計画されている「プログラミング」の義務教育化という2つのテーマだ。一見縁遠いようで、実は関連性の深いこの両者を読み解いていく。

進化していくAIを理解するためにも、必要な教育

   AIをめぐる3回の連載も、これで最後となるので、無難に軟着陸させるには、どんな着陸態勢が良いか?漠然と考えていたが、終了間近にとんでもない本に出会ってしまった。その著者はレイ・カーツワイルで、題名は「シンギュラリティは近い 人類が生命を超越するとき」という本である。

   それで、引き続き、この本の紹介に入ろうとしたのだが、その内容にも当然関連する一方、前回の世界最強韓国の棋士を打ち負かしたAIアルファー碁が「人間には想定外の布石を打ってきた」というくだりに関し、説明すべきであった重要な項目について、先に述べた方がベターだ、と考え直した。

   それはディープラーニング(深層学習)について、である。これはAIの学習機能が劇的な改善に繋がった、という学習方法の話である。

   従来の、人がAIに課して来た学習方法は、飽くまでも人が、たとえば数字「3」という画像認識をさせようとする場合に、人が考え得る数字「3」の特徴をプログラミングしてAIに学習させるというものだったそうで、これでは当然、人の能力を超える学習は不可能だったわけである。しかし、ディープラーニングはAI自体に対象物の認識に至る学習方法を任せてしまう、というものらしい。

   それでは、それはどのようにして行うのか?先ず、認識させようとする画像の多岐に亘る変型画像をAIに記憶させることになるのだが、その際に画像特徴の抽出を、人では無く、AIに任せる、というものだ。AIは膨大な数に上る画像データを記憶し、それらのデータから対象画像を認識する際の特徴を自ら抽出し、収集する、というものだ。しかもその認識方法は、人間の脳のようにニューロンのネットワークを構築して自己学習しながら行うそうだ。

   実は、このディープラーニングをテーマとしたNHKの"サイエンス ZERO"という番組では、このニューロン・ネットワークでの認識の仕方を図で示して分かり易く説明していたのだが、ここではそれが再現出来ないので、言葉で説明を試みる。要は何本かのニューロン・ネットを構成するラインが並列的に並んでいて、データの特徴は1本のラインのみを通過して認識されるのでは無く、隣接するラインをも関連させながら認識して、対象物の特徴を統合的に蓄積、学習して行くという仕組みだ。このやり方だと、人間が普通に、しかも殆ど無意識にこなしている対象物の認識-、それは視覚のみならず、いわゆる五感を総動員させて自然に行っている方法に限りなく近付くことになる。

   たとえば、ロボットに視覚と運動の記憶を同時に学習させる。例として、黄色い球体をロボットのアームに保持させて、これを上下に運動させる。あるいは種々に色分けされた、音色の違う振鈴をAIに記憶させ、そのデータを蓄積、学習させる。そうすると、どうなるか?なんとAIは「連想」や「想像」という人間並みの能力を示すようになる、というのである。

   実験では、ロボットの脳内を示すコンピュータのディスプレイに、或る振鈴の音を鳴らすと、その色分けされた振鈴の画像が誤りなく現れたり、黄色い球体を認識させると、ロボットのアームが反応したりするようになる。

   これが更に進化すると、大人が幼児に対し本を読み聞かせると、彼もしくは彼女の脳内に話のイメージが浮かぶように、そこまで学習したAIは文章から映像を創出することが可能になる、という。このことは、前回で筆者が触れた機械翻訳の限界と、それからの脱却の問題に大きく関わることになる。こうしたレベルに達したとき、最早「機械翻訳」という言葉自体が不適切である、と筆者は言いたい。この段階に達したAI翻訳機能は、人間の能力を完全に超えることになるに違いない。

   つまり、簡単な言い方をすれば、最早外国語の自国語への翻訳などという面倒な一手間は不要となることを意味する。それは、たとえ原文がどんな外国語で書かれていようとも(その外国語についての、プログラムさえ用意されていれば)、このAI翻訳機に掛けたとき、その内容をイメージとして直接ディスプレイに表示させることが可能になるから、極端な言い方をすれば、逐語的に翻訳された文章を読むこと無しに、映画のように映像をダイレクトに視聴することによって、その書籍の内容を把握することが可能となる筈である。言う迄も無いが、そこには従来の逐語訳を介しての二国語間の置き換えを経由し、そこから得たイメージを更に人の脳内や映像再生装置内で再構築するなどという、まどろっこしい処理は全く不要となるわけである。しかし、一方で、暇を見つけて手持ちのよい書籍を開き、珈琲を啜り、煙草の煙をくゆらせながらページをゆっくり繰りつつ、話の展開を密かに楽しむ、という風情は期待すべくも無くなることであろう。

   この段階に至ると、このAIは自ら文章を作成し、絵画を描き、作曲も手掛けることになる、という。
   筆者が言うまでも無く、この状態は完全にAIが人間の能力を凌駕し得る状態であることがお分かり頂けるであろう。
   そうなると果たして、人間に存在価値が残されて行くのだろうか?
   今の内から、その辺りも良く理解し、考え、方針を決めておくことが肝要であろう。
   さて、この画期的なディープラーニングの方法が確立されたことによって、「シンギュラリティ(特異点)」の話題にも話が進展することになり、ここで前述のレイ・カーツワイルの本に戻ると、2045年、人工知能を搭載したスーパーコンピューターが地球を支配する日が訪れ、コンピューターは人間の知性(生物学、生態学)を超え、世界は「シンギュラリティー」に到達する。その結果、病気や老化といった生物学的限界さえ取り払われ、もはや死さえもが「治療可能な」ものになる、という。

   2045年と言えば、今年は2016年だから、29年後のことになる。残念ながら筆者がギネスブックに載る程の世界一の長寿者にでも成らない限り、この目で真偽の程を確かめることは出来ない。しかし、気の遠くなるような先の話というわけでも無い。筆者の50歳前後の子どもたちが筆者程長生きすれば、当然遭遇するだろうし、孫たちに至っては、今の両親の年頃となっている筈であるから、良きにつけ悪しきにつけ彼らはその影響をまともに受け、その事態をどう受け止め、そしてそれを活用していけるのか?あるいは最悪の事態を想像すれば、人類、いや人工知能の、現時点では理解しがたい程の急速な進展の結果もたらされるであろう、その恐怖に打ち拉がれているかも知れない。

   俄に想像はつき難いが、着々と恐ろしい(人によっては歓迎すべき)事態がどんどん進行していることは略間違い無さそうだ。

   この著者レイ・カーツワイル氏(63)が、どんな人物か?について、ニューヨーク在住のフリージャーナリスト肥田美佐子氏の紹介によれば、SF映画さながらの「未来」の到来を固く信じ、研究や講演、執筆活動、映画制作に飛び回る米国人男性で、ニューヨーク出身の米主要発明家にして未来学者、起業家、ベストセラー作家であり、ビル・ゲイツ氏に「AIを語らせたら右に出る者がいない未来学者」と言わせるほどの、米国では、天才的人物との評価が高い人だ、そうだ。

   もう少し付け加えると、彼の言う「シンギュラリティー(特異点)」を超えると、AIの能力は人間が考え、信じて来た「生物学」的な知識が最早通用しなくなる段階に入る。つまり、現在もこれまでも人間、いや生命あるものが信じてきたルール「生あるものはいつか死す」という概念すら成り立たなくなる、というものだ。

   読者の皆さんはどう、考えるだろう?「SF的話題としては面白いが、そんなことあるわけ無いだろう!」と、多分大方の方々は仰有るだろう。筆者も俄には信じ難いが、決して可能性が無い、とは言えぬ、と考える。レイ・カーツワイル氏ご本人は2045年を是非迎えるべく、至極大真面目で、日々健康に留意、努力されているらしい。

   そのような時代が来るかも知れないことについて、「エリートの道楽」「テクノロジー依存症」「シンギュラリティーは、(最新のテクノロジーを享受できるという)持てる者と持たざる者の格差を拡大させる」等々の批判も少なく無いらしい。

   筆者としては、そうした恐ろしくも、また画期的な技術の成否も気になるところだが、それよりもそれに関連して起こりうる、これら批判の対象となっている問題点の派生こそ人類にとって早急に解決すべき大きな問題では無かろうか?と考える。それこそ、浅はかな人智を超える(神のような)AIの出現を期待したいものだ。

   さて、この話はこれくらいにして、次はもう少し近い、というより、もう直ぐ実施云々が論じられている「プログラミング学習の義務教育化」に目を転じてみよう。

   我々の暮らす、今そして未来の社会が、ここまで述べて来たような状況にあるのだから、子どもたちの教育という観点からも、基礎的なこと、基本的な考え方などについて、義務教育において、どうするのが適切なのか?は当然議論、検討した上、妥当な結論を出して置くべきだろう。

   この件に関しては、本連載の第1回目でも様々な意見に関するタイトルだけを掲げて置いた。たとえば、その中の幾つかを挙げれば、次のようなものである。

   * <2020年から小学校でプログラミング必修化だけど、全員整列教育では何も変わらないよ>について、それはその通りだろう。だが、それは別にプログラミング教育に限られるものでは無く、どんな教育でも同じことだろう。義務教育の場合は、特に、絶対に押さえておかねばならない基本だけを全員に叩き込んでおけば足り、それ以上は、特に興味や関心を持った子どもたちに手を添えて、伸ばしてやるように仕向ければ良いのであろう。

   * <プログラミング教育を強化した国で何が起きているのか?世界の教育事情>については、2015-02-24付けpaiza開発日誌によれば<アメリカでは「米国の全ての学校にプログラミングの授業を導入しよう」とするNPO団体『Code.org』の活動が活発化していたり、イスラエルでは早い段階からプログラミング教育を強化してきた結果、NASDAQ上場企業の数がアメリカに次ぐ2位となっている。また、イギリスやエストニア(Skypeが生まれた国)でも、小学校からのプログラミング教育の義務化が実施されている。> という。これらの事実からは、矢張り義務教育化には、それなりの効果があるのでは無いか?ということを窺い知ることが出来る。

   * プログラミングは義務教育化すべきなのか? プログラミングは教養の一つと捉えるべき
   * 2020年から小学生にプログラミングじゃなくネットリテラシーを教えるべきじゃない?

   この二つのタイトルについては、纏めて考えを述べよう。この場合、先ず「教養」という言葉の定義が問題だが、教養というより知識の観点から「プログラミング」を正しく把握して置くことが肝要であろう。

   単純な話であるが、特に高齢者向けパソコン教室などで感ずるのだが、『パソコンは単なる計算機で、人間がプログラムを介して命令しない限り、ただの箱に過ぎませんよ』ということすら分かっていない人が結構多い。分かっていない、というより、そんなことを考えてみることすら、しないのだ。

   パソコン教室では、ひたすら、どのショートカットをクリックすると、どこのサイトへ飛んで、そこでパスワードを入力し、「次へ」をクリックすると、どうなって、こうなる...、というようなことを一々ノートに記入し、記録したりする人が居る。

   「何もメモなどしないで、パソコンにどのような作業をさせたいのか?それだけを考え、そのためには、どう命令すれば良いか?」だけを考えてみて下さい、と申し渡すのだが、こちらの意図さえなかなか分かって頂けないようだ。

   小学生には、こうした考え方の基本を教育して貰いたいものだ。無論、具体的なプログラミングを実際に体験して貰うことが目的だから、その訓練には最近、特に色々な機関から出されている遊具の類を利用して、プログラミングの結果が目に見え、しかも子どもたちが楽しめるような形で体験して貰うのがベストだ、と思う。

   それと、確かに、いわゆるネットリテラシー*(注)を教えて置くことは肝要であろう。学校を卒業した全員がプログラマーになるわけでは無いのだから、「プログラミング」がどんなものか、正しく理解、把握させた上、プログラミング次第でパソコンがどのような働きをするか、そしてそれをどのように活用して、人類に役立たせたらよいのか?また、一方で人の能力やAIの発達、発展には、どのようなメリットあるいはデメリットがあるのか?を考え、そしてそれを如何にして上手く処理したらよいか?というようなことを自主的に判断し、思考する習慣を是非つけさせて置いて貰いたいものだ。

* 注:リテラシー(英: literacy)とは、原義では「読解記述力」を指し、転じて現代では「(何らかのカタチで表現されたものを)適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現する」という意味に使われるようになり、日本語の「識字率」と同じ意味で用いられている。

   上でも延々と述べてきたように、AIの発展により、現時点では想像するのも困難な程の画期的なイノベーションがもたらされるであろう一方、それに伴い、一歩誤れば人類を破滅させかねないような大きなリスクをも包含している現在の事態を的確に理解し得る能力の基礎を教え、理解させることこそ「プログラミング義務教育化の肝」と言えよう。

   最後に、佐賀県武雄市教育委員会の見解を記して、3回の連載を通じ82歳の筆者が考えたAIをめぐるコラムを閉じることにしよう。

「単なるプログラマーの養成という視点ではなく、ITに対してアレルギーのない児童の育成が出来るのではないかと期待している。ものづくりを通して、筋道を立てて考える力や先を見通す力、試行錯誤しながら目標を達成する力を身につけてほしい」。

   ここで蛇足だが、思うに、AIをめぐるトピックスは今後も形を変えて現れる筈で、途絶えることはあるまい。従って、このテーマに関心を有する者として適宜それをフォローしながら、都度見解を述べる余地は残して置きたい、と今は考えて居る。(完)

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筆者:ぶらいおん(詩人、フリーライター)

東京で生まれ育ち、青壮年を通じて暮らし、前期高齢者になって、父方ルーツ、万葉集ゆかりの当地へ居を移し、今は地域社会で細(ささ)やかに活動しながら、西方浄土に日々臨む後期高齢者、現在100歳を超える母を介護中。https://twitter.com/buraijoh
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