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82歳筆者が考える、熊本地震後の「不謹慎狩り」...土俵を異にする議論の不毛さ

ぶらいおん

ぶらいおん

2016.05.24 11:00
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地震で倒壊した歴史的建造物・熊本洋学校教師館ジェーンズ邸(hyolee2さん撮影、Wikimedia Commonsより)
地震で倒壊した歴史的建造物・熊本洋学校教師館ジェーンズ邸(hyolee2さん撮影、Wikimedia Commonsより)

熊本地震をめぐり注目を集めたのが、「不謹慎狩り」といわれる現象だ(参考:熊本地震「善意を潰す不謹慎狩り」は大問題だ)。

地震後、SNSなどで何気なく日常の楽しかった話題などを投稿した人に、「不謹慎だ!」「被災地の気持ちを考えろ!」などと罵声が飛ぶ――こうした奇妙な事態は、どうして起こるのか。82歳の筆者、ぶらいおんさんに、ご自身の経験を元に分析してもらった。

あなたの発言を不謹慎と決めつけるのは、別の土俵の人でしかない

   TwitterやFacebookは、筆者も普段からよく利用している。マスコミとは一味違い、また情報キャッチ速度でマスコミより優れている場合も認められるからだ(但し、その裏付けや信憑性についてはマスコミに軍配が上がる場合も、またそれなりにあるだろう)。

   SNS上に「不謹慎狩り」なるものが存在することは薄々聞いてはいたが、正直なところ、特に「不謹慎自警団」の存在など知らなかった。筆者のフォロー、フォロワーの範囲では殆ど見掛けたことが無い。

   SNS上でも、『このような「不謹慎狩り」に怯えたり、影響を受けている』ことに対し、たとえ災害が発生したからと言って、自粛してみても我が国全体の経済に何ら寄与するものでは無く、むしろ逆効果で復興を妨げるだけだ。」という至極常識的なメッセージもある。

   また、タレントが少なからぬ額面の寄付をしたり、有名女優が応援メッセージをブログから発信したりすると、「災害に便乗する売名行為だ」という類の悪口雑言を浴びせかけたりする現象があるようだが、これはどうみても、単なる嫉妬心で、他人を揶揄するだけで何もしない暇人の戯言のように見える。

   困っている人々を支援しようとする気持ちの有る人なら別に誰だってよい訳で、貧者は一灯を捧げ、著名人はその知名度を最大限に活用し、キャンペーンの先頭に立って寄付金集めを促進するなど、夫々分に応じて誠意を示せばよいのではないか。

   このように、目を覆いたくなるような醜悪で、独り善がりな「不謹慎狩り」が跋扈する現象に対して、常識的な反論や論評もまた、それなりに見られるようだ。

   しかし、筆者はここで、全く別な角度から刃を振りかざし、一刀両断してみたい。但し、浅学非才ゆえ、どこまで読者を納得させ得るか?本当のところ大いに心許ないのだが、所詮「自分は自分以外の何ものでも無いのだから」いつも通り、独断と偏見で押し通そう。

   筆者の立場からすれば、結局、この種の現象は容易に切り捨て得る程度の事象だ。

   つまり、たとえば或る問題について議論を始めようとするなら、論者は必ず同じ土俵に立たねばならぬ。当然、違う土俵上に立つ者同士が相撲を取るなどということは、ファンタジーやSFの世界ならいざ知らず、現実の世界では到底あり得ないからだ。

   ところが、こんな至極当たり前の状態確保が意外にも、そう簡単では無かった経験がある。今はもう種々の理由(たとえば、参加者の死亡、老化(私も含めて)など)で中断状態にあるが、一頃、筆者が中心になって「詩をきっかけとして考える会」という集いを1ヶ月に1回くらいの間隔で定期的に開催していた時期があった。

   もう少し、説明を加えさせて貰うと、筆者はかねがね「詩」を可成り広い範疇で捉えており、特に難解とも、独り善がりとも言われる現代詩を、その狭い概念から脱却させるべきだ、と主張してきた。

   つまり、「美」=「真実」延いては「人の生きること」に纏わる森羅万象は全て「詩」そのものでは無いにしても、少なくともそのエッセンス足り得る、と考えて来たので、「考える会」に冠された「詩」は、そのような広い概念を有するもの、と説得しながら、「詩」という言葉に尻込みする人々を勧誘し続け、数年間にわたり会を存続させてきた。

   入会、退会は何時でも自由な会だったので、当然出入りはあって、若い人が参加された時期もあったが、多くは、当時の筆者(70代?)の年齢前後から60代(若しくは50代後半)にわたる年輩の方々が多く、常時数名の参加があった。

   そんな事情で、毎回取り上げるテーマは、大袈裟に言えば何から何まで、芸術的なものから現在の社会情勢に至るまでを広く網羅していた。

   そんな時、どちらかと言えば、論理的命題が取り上げられるような際に、筆者が困惑した事態がある。それが上述の「異なる土俵上の議論」である。これが一度起こると、救い難い混乱状態に陥る。

   たとえば、「死刑制度を容認するか、否か?」という二者択一的設問について回答を求められた場(土俵上)において「死刑制度そのものには賛成しかねるが、多数の人を殺めた極悪人や、自分の家族が被害者となったような場合には、死刑判決に反対出来ない」という答えは、本来結論として「死刑制度容認」の範疇に属するものであって、それに付された他の条件はこの際、全く意味を成さない。

   何故なら、この場で必要な回答は「死刑制度容認」か「否定」か?だけであり、それが死刑に該当する犯罪か、否か?は全く異なる場(土俵)で論じられるべきテーマだからである。それはちょっと考えを進めて貰えば、誰にでも気付く筈のことである。つまり、幾ら「死刑制度容認」だからと言って、あらゆる犯罪(たとえば、スリ、かっぱらいにまで)直ちに死刑を適用すべきだという主張とは、全く話が違う。

   引き続く、別な議論の場(土俵)を設けた上で初めて、「死刑」と認定する際の必要な条件がディスカッションされるべきであることは容易にお分かり頂けるだろう。

   これら2種類の議論を分けること無く、最初の1つの土俵上(場)でカテゴリーの異なる2種類の相撲を取ろうとするから、議論が進まず(というより議論が成立せず)混乱だけが拡がる結果となる。

   従って、言ってしまえば、上に例として挙げたような条件付き回答は、最初の土俵上では全く無用の長物であり、更に、議論を進める際の単なる夾雑物でしか無いのだが、この辺りを誤解する人達が想像以上に多く、まともな議論が進行せず、脇道で混乱状態に陥ってしまう経験が少なからずあった。

   その理由を筆者なりに考えてみると、この会に参加されていた十分社会的な常識も備えて居られる筈の年輩者ですら、この種の論理立てた議論の進め方には、余り慣れて居ないからだ、と思われた。況んや、経験不足の若者たちが、この種の論理の立て方や発言する際のルールに精通していないことが"「発言力を行使するためのハードル」を極めて低く"(熊本地震「善意を潰す不謹慎狩り」は大問題だ 東洋経済オンライン)してしまったと見ることもできるだろう。

   SNS上の発信は論理的議論とは異なる。それはそうかも知れない。しかし、或る意思をもって発言する以上、自分の立ち位置は、はっきり認識していなければならない。それはむしろ、当然というか、最低のルールと言えよう。ところ構わず、その時の感情の赴くままに勝手なことを発言しまくる、と言うのは、どう考えても一人前の大人のすることゝは思えない。

   更に、意図的にSNS上の二つの具体的土俵(場)を想定して話を進めてみよう。A.は災害が発生した或る、特定の地に関する情報や支援など諸々の情報や、励ましや慰めが大勢の人々により発信されている場(土俵)と、B.人生の終末ケア、いわゆるホスピスに滞在する人々を見守り、励ましや慰めなどを発信し合う場(土俵)を策定する。

   TwitterなりFacebookなり、あるいはそれ以外のSNS上に「ああ、今日は冷たくて美味しいアイスクリームが食べられて本当に仕合わせだった」という発信があったと仮定して、それがB.に属する場から、幾許も無い余命宣告を受けた癌患者から発せられたものであっても、「災害地のことを考えれば、不謹慎だ!」とA.の土俵上に立っている人達は言うのだろうか?もし、そうなら、B.の土俵上にいる人々は無論のこと、両土俵上を客観的に眺めている第三者的立場の人達からしても、そんな発言をすることこそ将に「不謹慎」以外の何ものでも無い、と考えるだろう。

   この事からも容易に想像出来るように、SNS上の具体的な各人の場(立ち位置)が把握し難い状況では、先ずそれをはっきり見極めることが極めて重要である。もし、それが明瞭に認識出来ないなら、安易に発言すべきでは無い。

   "「発言力を行使するためのハードル」が極めて低くなって"誰でも容易に発言出来るようになり、それは社会にとって決して悪いことでは無い(前掲東洋経済オンライン)から、と言っても"場所柄を弁えず"に無闇矢鱈に発信しまくり、垂れ流すなどは単なる無責任に他ならない。

   いわゆるタイムライン監視自警団を務める方々は、むしろ、このような異なる場(土俵)違いの、ピント外れ発言をこそ指摘して頂きたい。

   善意の発言を曲解されて困惑される方々にも申し上げたい。あなた方の発言を「不謹慎」と決め付ける輩は、あなた方の土俵(立ち位置)とは異なる土俵上(場)にたむろして居る人々に過ぎない。だから、彼らは最初から、あなた方の土俵上には存在しない相手なのだ。それ故、本当に善意のあなた方が、敢えて怺えながら、不快で、ピント外れな、不謹慎発言を、自らの意思で「無視する」努力すら、する必要は無い。何故なら、そんな人々は最初から、あなた方の立ち位置には存在しない無関係な存在だからである。このような場合、そこにはそもそも真面に相手にするだけの意義すら存在し無いのだ。

   そう考えて、そのまま堂々と信ずる行動を続けられるのも良し、また志を曲げることでは無く、炎上という卑劣な手段を回避するために問題の、自分のブログなりアカウントを閉じて、新たな場(土俵)を設けて、善意の行動を継続しても良いし、また全く別なメディアを利用して信ずる道を進んでもよい訳だから、決してめげないで頂きたい。

   世の中に多種多様な人々が居る限り、各人の成熟度、ルールを弁える能力程度、知識や判断力の有無などが異なるのも、また現実世界では止むを得まい。卑劣な、数の暴力は、如何なる時代にも、如何なる場所、場合でも容認することは出来ない。しかしながら、完璧で完成された社会の到来もまた、現実にはあり得まい。

   となれば、善意の人々、本当の意味で社会に役立ちたいと願う人々は、理不尽なトラブルに負けずに、自分の信ずる道を堂々と進んで頂きたい。それを見守り、応援しようという人々もまた、確実に、少なからず存在することは間違い無いのだから。

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筆者:ぶらいおん(詩人、フリーライター)

東京で生まれ育ち、青壮年を通じて暮らし、前期高齢者になって、父方ルーツ、万葉集ゆかりの当地へ居を移し、今は地域社会で細(ささ)やかに活動しながら、西方浄土に日々臨む後期高齢者、現在100歳を超える母を介護中。https://twitter.com/buraijoh
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