「日本最古の石ハネ」「加藤清正時代のものと酷似」 歴史的遺構、球磨川の堤防で「今だけ」露出中
今、熊本県を流れる球磨川の岸には、非常に珍しい光景が広がっているらしい。
普段は土に覆われている「遺構」が、期間限定で「露出」しているのだ。
三角形の石垣のようなものが、川の方へ張り出している。周りの地面は一段下がり、どうやら地中から掘り出されたらしいことが分かる。
この写真はJR八代駅(熊本県八代市)近くにある球磨川の萩原堤防で撮影されたもの。ツイッターユーザーのととやま(@yamaguchioToTo)さんが2022年11月26日、次のつぶやきと共に投稿した。
「いま球磨川の萩原堤防下の工事やってるんだけど、これ、加藤清正時代に作ったハネだよね?
400年くらい前の構造物が露出してるのって今だけなんじゃない?」
加藤清正と言えば、豊臣秀吉の子飼いの大名。「虎狩り」などの逸話で知られる勇猛果敢な武将である同時に、荒れていた肥後の国土を整備した名君として、今でも熊本の人々に慕われている。
そんな清正が築いたものの中には、今なお現存しているものが複数あるが......この写真に映っているのもその一部なのだろうか?
「日本最古の石ハネのようである」
国土交通省・八代河川国道事務所がウェブ上で公開している資料によると、萩原堤防で現在露出している石垣のようなものは「石刎(いしはね)」。水の勢いをやわらげて川岸を守るために作られるもので、清正が治水工事でよく用いた工法だ。
荻原堤防の石ハネも、加藤清正時代の城郭に見られるものと酷似しているという。ただ、作られたのは清正死後、息子である2代藩主・加藤忠広の時代だと考えられている。
萩原堤防は、元和5年(1619)から2年半を費やして、加藤正方が八代城築城の際に同時に完成させたと言われており、洪水から堤防を護るために「石ハネ」が施工され、現在でも残っており、日本最古の石ハネのようである(八代河川国道事務所「第3回 球磨川下流域景観デザイン検討委員会資料 萩原堤防のデザイン検討について」より。加藤正方は熊本藩加藤氏の家臣で、忠広の命で八代城築城にあたった)
当時作られた石ハネは全部で7つ。ツイッター上で注目を集めたのは、現存しているのは4つのうちの1つだ。
資料内の写真を見てみると、いずれも植物等に覆われていて、全体像がはっきりと見られる状態ではなさそうだったが......どうしてそれが、しっかり見える状態になっているのか。
Jタウンネット記者は国土交通省九州地方整備局八代河川国道事務所を取材した。
堤防の安全性を確保すると遺構が埋没
石ハネがある萩原堤防は、治水上の重要度が非常に高い堤防だ。万が一破堤すると八代市内に甚大な被害を及ぼすおそれがある。
しかし、球磨川の水の流れが特に強く当たる場所なので、堤防が削れる「深掘れ」が起こり、安全性の低下が起こっているという。
そこで、現状厚みが不足している堤防を補強する工事を行っているのだが、安定性を確保するためには、堤防の幅を広げる必要がある。そうすると、現存している4つの石ハネのうち3つ(丸ばね・山下はね・寺ばね)は埋没してしまう形になるのだ。
しかし、石ハネは歴史的遺構。八代河川国道事務所の方針は、堤防の機能を確保したうえで、石ハネも保全するというものだ。そのためにも歴史的価値を正しく評価する必要があるので、現在、八代市文化振興課に「丸はね」「大はね」の埋蔵文化財調査を依頼し、構造や構築状態を調べている。これが「期間限定露出」のワケである。
「(埋没させる)工事の前にしっかり構造や高さを改めて調査しています。その結果、石ハネが想定していたより高い位置にあるといった事実がわかれば、埋没保全ではなく、別の方法で保全する場合があります」(八代河川国道事務所)
また、埋没させることになった場合も、単に埋めてしまうというわけではない。表面を被覆して保全したうえで、石ハネの歴史的価値を伝える解説板を設置したり、埋まっている場所の上部に石張りでかさ上げすることで、石ハネの形状を復元したりする案もあるようだ。
八代市文化振興課による調査は、4つの石ハネのうち2つ(大はね・丸ばね)について、22年11月1日から23年3月末まで行われる予定。見ておきたい人はお早めに。