明治時代にタイムスリップ! 「岩手銀行赤レンガ館」の内部建築が最高すぎる
2020.01.22 20:00
内部公開の見どころは
Jタウンネット編集部の取材に答えてくれたのは、岩手銀行広報CSR室の担当者だ。
まず、内部公開のきっかけを聞いた。
「1994年(平成6年)に現役の銀行として初めて国の重要文化財に指定され、2012年(平成24年)8月まで営業していましたが、建物の老朽化、東日本大震災の影響もあり銀行としての営業を終了しました。
その後、地域の賑わいを生み出す建物として活用しようと、約3年半に渡る保存修理工事を行い、現在は公開施設としています。
銀行時代に営業室として使用していた多目的ホールは、地域の方々の発表会、作品展などに活用していただいています」
内部公開の見どころについては、
「旧建築様式が復元されたエントランスホール、応接室、金庫室など、創建当時の様子が伺える空間がご鑑賞いただけます。多目的ホール上部のシャンデリアも見どころのひとつです」
と話していた。
設計は辰野金吾の他に、岩手出身の協力者がいたそうだが、
「辰野金吾と、その教え子で盛岡出身の葛西萬司があたりました。館内装飾のどこまで辰野金吾が手がけたのかは分かりません」
とのこと。
そこで、Jタウンネット記者は葛西萬司について調べてみた。
「葛西萬司は1863年(文久3年)7月21日,盛岡上衆小路(現:盛岡市下ノ橋町)にて盛岡藩士鴨澤舎の次男として生まれた。盛岡藩士であり,のちに岩手銀行頭取となる葛西重雄の養子となり葛西姓を名乗る。
12歳で上京した後,慶応義塾,第一高等中学校をへて,1890年(明治23年),帝国大学工科大学造家学科を卒業した。同年,日本銀行建築科へ技師として就職,そこで辰野金吾とともに建築の仕事に従事した。1903年(明治36年)8月,辰野とともに辰野葛西建築事務所を開設する」(盛岡市のホームページ内『盛岡の先人たち』第44回より)
全国を駆け回っていた辰野金吾に代わって、盛岡市内の現場の細部にまで目を配っていたのは、盛岡出身の葛西萬司であったかもしれない。九州佐賀の唐津藩出身の辰野よりも、盛岡出身の葛西の方が自然に力が入ったのではないだろうか。
また明治時代後期、地元の人々が話す南部弁を九州人の辰野が正確に理解するのは、相当に難しかったはずだ。単に方言だけでなく、気質の問題もある。そこで盛岡出身の葛西に頼る部分も多かったのではないかと、Jタウンネット記者は想像する。