阪神の名将、あなたは誰が好きでした?【都道府県別投票】
プロ野球・阪神タイガースは今季リーグ6位に沈んだ。その責任を取って金本知憲監督が辞任。2018年10月11日には球団事務所で会見を行った。
05年以来、優勝から遠ざかっており、中々浮上のキッカケを掴めずにいる。成績が上がらないため監督も3~4年の周期で交代する。また、一度退任したが再び戻る例も多く、1985年に日本一を達成した吉田義男氏は3度にわたって監督を務めるなど以前から監督人事が混沌していることが伺える。
シーズン途中の解雇による代理を除けば、85年最後の日本一から2018年まで11度の監督交代劇があり10人の監督が就任した。Jタウン研究所では、そのうち今でも記憶に残る監督は誰なのか調べてみたいと思う。
ます吉田義男氏だ。75年から77年、85年から87年、97年と98年と実に3度にわたって監督を務めた。85年は投手層の薄さが指摘されるも、78年オフに西武から移籍した真弓、伝説のバックスクリーン3連発のバース、掛布、岡田らのダイナマイト打線の大活躍で21年ぶりのリーグ優勝と初の日本一を成し遂げた。その後はチームの調子が上がらず87年最下位になったのを機に村山実氏へ交代した。
村山氏は自身の現役末期である70年から72年まで選手兼任監督を務めていたが、読売ジャイアンツのV9時代とあり2位を記録するも優勝には届かず現役引退と共に監督から身を引いた。2度目就任は88年、後の監督である和田豊らを起用した世代交代を図ったが、バースの退団と掛布の引退が重なり最下位。翌89年も5位で監督を辞任した。
中村勝広氏は90年から95年途中と在任期間が長かった。92年に新庄剛志、亀山努の2人が「亀新フィーバー」と呼ばれる大活躍。パチョレック、オマリーら今でも人気の高い外国人選手の活躍もあり2位と大躍進した。投手も湯舟敏郎、野田浩司らが活躍した。95年に序盤からの大不振でシーズン途中に休養に入り、辞任した。
中村氏の代行から正式な監督となった藤田平氏の在任期間はわずか1年半。96年オフに阪神を去った。新庄とのすれ違いなどマイナス要素がフィーチャーされたが、桧山進次郎の4番起用と葛西稔のリリーフ転向は藤田氏によるものであった。
97年に3度目の就任となる吉田氏になったものの、下位から抜け切れず野村克也氏に交代。しかし、99年から01年まで最下位。あまりの選手層の薄さに困った挙句ひねり出した遠山、葛西が投手と一塁手を代わる代わるやる「遠山・葛西スペシャル」が有名だ。この時期、長打力不足を補うため、赤星ら俊足選手を多数起用し、03年の優勝へ向けての土台が作られる。
02年と03年は星野仙一氏が監督を務める。4年連続最下位の暗黒期に入団した井川、矢野、今岡らの活躍で03年悲願のリーグ優勝を飾ったが、星野氏の高血圧症もあり勇退。
後を継いだ岡田彰布氏も2年目の05年にリーグ優勝。その後、井川の退団があったものの、上位に食い込み続けた。08年に優勝を逃した責任をとり退任となった。
後任の真弓明信氏は09年こそ4位に沈むも10年に一時マジックが点灯するなど優勝争いに食い込み、2位と大健闘。11年は再び4位に沈んでチームを去った。
12年からは和田豊氏が務めた。13年から15年までCS出場、14年には巨人を下して日本シリーズに進む健闘を見せた。16年からはご存知、金本監督が就任している。
これまでを振り返ったところで、読者の皆様に質問。
「どの阪神監督が好きでしたか?」
以下の選択肢からお答えいただきたい。結果は、Jタウンネットのシステムで都道府県別に集計する。