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消失する日本の往来――「消滅可能性都市」の現在/十津川村(第1回)

福岡 俊弘

福岡 俊弘

2017.03.28 11:00
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十津川というナラティブ

   十津川の人々が日本史に初めて登場したのは、7世紀、壬申の乱のときだった。吉野に隠棲していた大海人皇子が、天智天皇崩御ののち挙兵、そのまま大友皇子を打ち破った、日本史の授業では必ず出てくるあの内乱である。十津川村の年表にはこう描書かれている。
「672年 弘文元年 壬申の乱の際、郷人は天武天皇(大海人皇子)に従い、功あって三光の御旗及び御製を賜って租税も勅免されたと伝える。」
   この"郷人"というのが十津川の人々である。三光とは太陽、月、星の3つの紋のことであろう。御製(ぎょせい)というのは天皇の詠んだ和歌のことで、それは
「とをつ川吉野の国栖のいつしかと 仕へぞまつる君がはじめに」
という歌であったと伝えられている。
   そして、このときの功により免租地となった。以来、明治6年(1873年)に地租法が改正されるまでの約1200年間、十津川は年貢を納めなくてよい別天地だった。

   とんと十津川御赦免どころ 年貢いらずのつくりどり

十津川村ウェブサイトより

御赦免地歌碑(十津川村ウェブサイトより

   五條市大塔町を通って、村境の城門トンネルを抜けたところに、上の歌が彫られた歌碑が建っている。江戸のころに歌われた里唄ということらしい。太閤検地を経ても、徳川の時代になっても、十津川は免租地であり続けた。司馬遼太郎はそのことについて「そもそも年貢である米を作るだけの平地が(十津川には)なかった」からではないかと考察している。租税を課したとしても、その租となるべき米が獲れないのでは租税の意味がないからだ。
   それにしても......村の年表が壬申の乱から始まるなどというのは、日本広しと言えどもこの十津川村くらいではないか、と思う。

   14世紀にも十津川は登場する。建武の新政の崩壊後、後醍醐天皇は吉野に入り自らの朝廷を開く。いわゆる南北朝時代。その忠臣として名高い楠木正成の孫に楠木正勝がいた。正勝は、祖父、父の遺志を継ぎ、南朝の武将として奮戦するものの、北朝側の武将、畠山基国の軍勢に破れ、根拠城としていた千早城を失う。その後、再起を図るために、弟である正元とともに十津川に逃れた、という歴史の一場面としてこの村が登場する。正勝は10年ほど十津川に潜伏したが、再挙を果たせず病没、この地に葬られたと伝えられる。その楠木正勝が隠棲した武蔵という集落に正勝の墓がある。今も毎年4月3日に、村人によって追悼祭が営まれている。

楠木正勝の墓所。佐久間信盛の墓も同じ場所にある。

楠木正勝の墓所。佐久間信盛の墓も同じ場所にある。

   十津川の名前をもっとも有名にしたのは幕末に活躍した十津川郷士であることは間違いない。天誅組に2000人もの郷士が参加した(のち、朝敵となったことが判明し離脱)との記録がある。京都にも屋敷を構え(「十津川屋敷」と呼ばれた)、およそ200名が御所の守衛として働いた。これを村では「京詰」と呼んだらしい。勤王の志士の一翼を担っていたのである。戊辰戦争でも十津川郷士たちは、北越、奥州、函館と多くの犠牲を払いながらも従軍した。維新後、新政府から下賜された恩賞は、先に述べた文武館、のちの十津川高校の校舎建設と維持に充てられた。
   もっとも有名な逸話は、坂本龍馬が京都・近江屋で暗殺されたとき、暗殺者たちは店先で「十津川郷の者」だと嘘をついて店の者を安心させたことだ。十津川郷士たちは、それほど龍馬やその仲間たちから信用されていた。龍馬は、とりわけ中井庄五郎という若い十津川郷士を可愛がっていて、「青江吉次」と鑑定された刀を彼に贈っている。十津川村役場近くにある歴史民俗資料館には、刀を贈られたときに添えてあった、龍馬直筆の手紙が所蔵されている。

   ほかにも保元の乱にも参加したという話(『保元物語』)、大坂冬の陣で徳川方について戦ったという話、などなど、十津川は日本の歴史の節目にことごとく顔を覗かせている。この規模の村、言ってみれば寒村で、これほど華々しい歴史を有する村をほかに知らない。

   その村の人口減少が加速している。

   取材中、村の人から聞いた逸話に、こんなものがあった。
   ――遠い昔、紀伊半島を桁違いの大津波が襲った。その津波は熊野の山々を呑み込みながらここ十津川に迫ろうとしていた。そのとき、一匹の犬が、玉置山中腹の杉の木の切り株の上に立ち、大津波に向かって一声「ワン!」と吠えた。すると、猛り狂っていた津波は瞬時におとなしくなり、みるみるうちに引いていったという――

   グローバリズムによってできた都市と地方の大きな歪み、十津川を襲う人口減少という津波は、この断層が引き起こしたものだ。次回からは、その景色について詳述する。

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筆者:福岡俊弘

編集者。1957年生。早稲田大学卒。1989年、アスキー社入社。コンピューター情報誌『EYE・COM』編集長を経て、1997年『週刊アスキー』を創刊、同誌編集長。TBSラジオ『スタンバイ』のコメンテーターなども務めた。現在、デジタルハリウッド大学教授。
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