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消失する日本の往来――「消滅可能性都市」の現在/十津川村(第1回)

福岡 俊弘

福岡 俊弘

2017.03.28 11:00
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天空の村、天孫の民

   大山塊――40年前、この土地を訪れた司馬遼太郎は、その著書『街道を行く』の中で奈良県・十津川村の地形をそう著わした。現在は隣接する五條市からの道が整備され、以前に比べて格段にアクセスがよくなったものの、今もって秘境と呼ばれる、そんな土地である。「人馬不通の地」と形容されたこともあった。急勾配の山々が連なり、その屹立した山と山との隙間を深い谷がつづら折りに果てしなく続く。山と谷。その相剋が織りなす斜面がわずかに緩やかになった場所に、猫の額ほど平地が存在する。そこが十津川の集落である。この集落がいくつも集まり、恐ろしく広大な村を形成している。

玉置山山頂付近から十津川の山並みを眺める。

玉置山山頂付近から十津川の山並みを眺める。

   言い伝えによれば、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)、のちの神武天皇が東征した折、熊野を抜けて休息のため立ち寄ったのが、ここ十津川村だという。その場所が現存する。村の南東部に位置する、世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産、大峯奥駈道の一部である玉置山がそれだ。

   玉置山の標高は1076メートル。山頂付近にあとで述べる玉置神社がある。その社殿から30メートルほど急勾配の坂を登ると、3本の杉の巨木が柵で囲まれた一画に出る。柵の中は白い玉砂利で敷き詰められていて、そこに少しだけ地表に顔を出したまるい石が確認できる。「玉石社」という。実はこれがご神体で、玉置の名はこれに由来する。先ほどの神武天皇が兵を休めたのはここであったという説がある。

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古代信仰の様式が残る玉石社。吉野の修験者は、玉置神社本殿に先んじてこの玉石社を参拝したそうだ。ご神体のまるい石の地下に埋もれた部分は、測ることができないくらい大きいのだと言われている。

古代信仰の様式が残る玉石社。吉野の修験者は、玉置神社本殿に先んじてこの玉石社を参拝したそうだ。ご神体のまるい石の地下に埋もれた部分は、測ることができないくらい大きいのだと言われている。

   その玉置神社について記そう。

   神仏習合であったころ、玉置神社は玉置三所権現と呼ばれていた。社伝の『玉置山権現縁起』によれば、建立されたのは第10代天皇、崇神天皇のころとされている。なんと紀元前の話。事実なら2000年の歴史を持つ神社ということになる。以来、十津川の民の信仰の中心となってきた。十津川の民は選択の余地なく、すべてがこの玉置神社の氏子なのである。

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   玉置神社は最近、ネット上で「最強のパワースポット」として人気を呼んでいる。そのパワースポットぶりを示す逸話はいくつかあって、そのひとつが「呼ばれた者だけが参拝できる」というもの。玉置の神様から呼ばれていないときは、参拝しようとしても、直前に病気になったり、道中で事故に遭ったりして社殿まで辿り着けないのだという。ちなみにもっとも多いのが、落石で神社までの道が通行止めになるというもの。話の真偽はともかく、そんな噂を呼ぶほどの聖域であることは間違いない。ちなみにここの社務所と台所、梵鐘は国の重要文化財に指定されている。

SAMSUNG Gear360で撮影

   宮司の弓場季彦(ゆばすえひこ)氏に話を聞いた。
「私がこちらの宮司となりましたのは今から4年前のことです。その頃の、参拝されるお客さんは年間2万人ほどでした。今はありがたいことに10万人に届きそうな勢いです」

「最近は、口コミで玉置のことを知ってくれる人が増えてるんが嬉しいです」と弓場宮司。

「最近は、口コミで玉置のことを知ってくれる人が増えてるんが嬉しいです」と弓場宮司。

   ミシュランガイドの観光部門で一つ星を獲得していることは、2年前に知ったそうだ。
「気がつかんところで風が吹いてくれて」
   そう言って相好を崩した。
   弓場宮司は現在74歳、十津川村の出身だ。中学3年生のときまで十津川に住んでいた。が、ダムの建設により家がダム湖の底に沈んでしまったのを機会に村を出た。大学卒業後、奈良県庁に長く勤務し、そののち奈良テレビの社長を5年ほど務めた。十津川には実に50年ぶりに帰ってきた。
「末っ子だったので帰るつもりはなかったんですが、兄が亡くなって......」
   村への特別な思いというより、まずは「墓を守る」「家を守る」ために再び十津川の地を踏んだのだという。

   幕末のころ、十津川村は尊皇攘夷派として多くの十津川郷士を京都に送り込み、文久3年(1863年)薩長とともに、御所の警衛の任にあたっていた。その中心となった郷士のひとりに、上平主税(かみだいらちから)という人物がいた。上平は医術、国学を学び、「素朴な天皇好き」(司馬遼太郎『街道を行く』より)であったと言われる。明治2年(1869年)、新政府の要人であった儒学者、横井小楠が暗殺されるが、上平はこの事件の黒幕とされ9年もの間、伊豆に配流された。のちに許され、十津川に戻り玉置神社の宮司となった。明治20年(1887年)、今から120年前のことだ。
   弓場宮司の話を聞きながら、この上平主税のことを思い出した。若いときに都に出て 晩年、十津川に帰ってきた話。このシンクロニシティ。偶然か必然か、はたまた玉置山の持つ場の力なのか。
   ――十津川を出で、十津川に帰り来る――
   弓場宮司によれば、最近増えた参拝者のほとんどが村外からの客だそうだ。しかもその6割くらいが東京方面から来ているとのこと。村人の素朴な信仰の対象だった神社は、2000年の歴史の中で初めてその景色が変わろうとしている。が、外から来た人は留まらず、また外へと帰って行く。そして、村人だけが留まり、日々の往来が続いていく。

十津川村の現在
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