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消失する日本の往来――「消滅可能性都市」の現在/十津川村(第1回)

福岡 俊弘

福岡 俊弘

2017.03.28 11:00
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   2014年に日本創成会議・人口減少問題検討分科会が発表した衝撃的な資料がある。当時の会議の座長であり、その後、東京都知事選にも出馬した増田寛也氏の名前をとって通称「増田レポート」と呼ばれる。その中のある言葉が日本中を震撼させた。「消滅可能性都市」。2040年までに全国1800市町村のうち、実にその約半数である896の自治体が消滅する恐れがあるというのがその中身だ。この「消滅」とはどういうことだろう。町が、村が、......なくなってしまう。そのイメージがわかない。ダムの底に沈むのでも、大災害が襲うわけでもない。ただ、町や村がある日忽然となくなるのだ、と、そのレポートは告げていた。

   本稿は、消えゆく往来の記録である。先の資料が予測した「消滅」する可能性があるとされた自治体に赴き、その土地の往来の記憶を、ただただ書き残すことを目的としている。巷間よく叫ばれる「地方創生」のためでも、いわゆる「町おこし・村おこし」を目的としたものでもない。地方の「今」を、ありのままに記す、いわば「往来のログ」の採取である。「消滅可能性」とされた町や村は、予測が示すとおりに何十年かのち、本当に「消滅」してしまうかもしれない。そうなれば、そこに存在した往来の記憶もやがて、時間の経過とともに失われていくだろう。だから、「記録」をする。そして、ネットというタイムカプセルの中にそっと押し詰める。そんな連載である。

   もちろん、「消滅」などさせまいとする、そこに暮らす人々の凄まじい努力は知っているし、敬意を払って余りある。だから、本稿がもし、人口減少に悩む自治体のなんらかの活性化のヒントに少しでもなるのであれば、それは望外の幸せであることも付記しておきたい。

   町も村も、そこに人が住んでいる限り、生きている。その息づかいが交差する「往来」を取材した。以下は、その記録と記憶である。

天空の村、天孫の民

   大山塊――40年前、この土地を訪れた司馬遼太郎は、その著書『街道を行く』の中で奈良県・十津川村の地形をそう著わした。現在は隣接する五條市からの道が整備され、以前に比べて格段にアクセスがよくなったものの、今もって秘境と呼ばれる、そんな土地である。「人馬不通の地」と形容されたこともあった。急勾配の山々が連なり、その屹立した山と山との隙間を深い谷がつづら折りに果てしなく続く。山と谷。その相剋が織りなす斜面がわずかに緩やかになった場所に、猫の額ほど平地が存在する。そこが十津川の集落である。この集落がいくつも集まり、恐ろしく広大な村を形成している。

玉置山山頂付近から十津川の山並みを眺める。

玉置山山頂付近から十津川の山並みを眺める。

   言い伝えによれば、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)、のちの神武天皇が東征した折、熊野を抜けて休息のため立ち寄ったのが、ここ十津川村だという。その場所が現存する。村の南東部に位置する、世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産、大峯奥駈道の一部である玉置山がそれだ。

   玉置山の標高は1076メートル。山頂付近にあとで述べる玉置神社がある。その社殿から30メートルほど急勾配の坂を登ると、3本の杉の巨木が柵で囲まれた一画に出る。柵の中は白い玉砂利で敷き詰められていて、そこに少しだけ地表に顔を出したまるい石が確認できる。「玉石社」という。実はこれがご神体で、玉置の名はこれに由来する。先ほどの神武天皇が兵を休めたのはここであったという説がある。

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古代信仰の様式が残る玉石社。吉野の修験者は、玉置神社本殿に先んじてこの玉石社を参拝したそうだ。ご神体のまるい石の地下に埋もれた部分は、測ることができないくらい大きいのだと言われている。

古代信仰の様式が残る玉石社。吉野の修験者は、玉置神社本殿に先んじてこの玉石社を参拝したそうだ。ご神体のまるい石の地下に埋もれた部分は、測ることができないくらい大きいのだと言われている。

   その玉置神社について記そう。

   神仏習合であったころ、玉置神社は玉置三所権現と呼ばれていた。社伝の『玉置山権現縁起』によれば、建立されたのは第10代天皇、崇神天皇のころとされている。なんと紀元前の話。事実なら2000年の歴史を持つ神社ということになる。以来、十津川の民の信仰の中心となってきた。十津川の民は選択の余地なく、すべてがこの玉置神社の氏子なのである。

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   玉置神社は最近、ネット上で「最強のパワースポット」として人気を呼んでいる。そのパワースポットぶりを示す逸話はいくつかあって、そのひとつが「呼ばれた者だけが参拝できる」というもの。玉置の神様から呼ばれていないときは、参拝しようとしても、直前に病気になったり、道中で事故に遭ったりして社殿まで辿り着けないのだという。ちなみにもっとも多いのが、落石で神社までの道が通行止めになるというもの。話の真偽はともかく、そんな噂を呼ぶほどの聖域であることは間違いない。ちなみにここの社務所と台所、梵鐘は国の重要文化財に指定されている。

SAMSUNG Gear360で撮影

   宮司の弓場季彦(ゆばすえひこ)氏に話を聞いた。
「私がこちらの宮司となりましたのは今から4年前のことです。その頃の、参拝されるお客さんは年間2万人ほどでした。今はありがたいことに10万人に届きそうな勢いです」

「最近は、口コミで玉置のことを知ってくれる人が増えてるんが嬉しいです」と弓場宮司。

「最近は、口コミで玉置のことを知ってくれる人が増えてるんが嬉しいです」と弓場宮司。

   ミシュランガイドの観光部門で一つ星を獲得していることは、2年前に知ったそうだ。
「気がつかんところで風が吹いてくれて」
   そう言って相好を崩した。
   弓場宮司は現在74歳、十津川村の出身だ。中学3年生のときまで十津川に住んでいた。が、ダムの建設により家がダム湖の底に沈んでしまったのを機会に村を出た。大学卒業後、奈良県庁に長く勤務し、そののち奈良テレビの社長を5年ほど務めた。十津川には実に50年ぶりに帰ってきた。
「末っ子だったので帰るつもりはなかったんですが、兄が亡くなって......」
   村への特別な思いというより、まずは「墓を守る」「家を守る」ために再び十津川の地を踏んだのだという。

   幕末のころ、十津川村は尊皇攘夷派として多くの十津川郷士を京都に送り込み、文久3年(1863年)薩長とともに、御所の警衛の任にあたっていた。その中心となった郷士のひとりに、上平主税(かみだいらちから)という人物がいた。上平は医術、国学を学び、「素朴な天皇好き」(司馬遼太郎『街道を行く』より)であったと言われる。明治2年(1869年)、新政府の要人であった儒学者、横井小楠が暗殺されるが、上平はこの事件の黒幕とされ9年もの間、伊豆に配流された。のちに許され、十津川に戻り玉置神社の宮司となった。明治20年(1887年)、今から120年前のことだ。
   弓場宮司の話を聞きながら、この上平主税のことを思い出した。若いときに都に出て 晩年、十津川に帰ってきた話。このシンクロニシティ。偶然か必然か、はたまた玉置山の持つ場の力なのか。
   ――十津川を出で、十津川に帰り来る――
   弓場宮司によれば、最近増えた参拝者のほとんどが村外からの客だそうだ。しかもその6割くらいが東京方面から来ているとのこと。村人の素朴な信仰の対象だった神社は、2000年の歴史の中で初めてその景色が変わろうとしている。が、外から来た人は留まらず、また外へと帰って行く。そして、村人だけが留まり、日々の往来が続いていく。

十津川村の現在

   現在の十津川村のデータを簡単に記しておきたい。
   十津川村は奈良県の最南端に位置し、熊野本宮を抱える和歌山県田辺市などと接している。奥吉野と呼ばれ、紀伊山地によって長らく交通的に隔絶された地域であった。十津川は「遠つ川」、遠い地であることが村名の由来であると言われている。公共交通機関ではバス以外のアクセス手段がなく、隣町、五條市から十津川村中心部までは3時間ほどの所要時間だ。ちなみに大阪駅から五條までは電車で1時間半ほどである。

   村の総面積は672.38平方キロメール、東京の23区を合わせた面積よりも広い。日本最大の広さを有する村でもある。が、その面積のほとんどを占めるのは紀伊山地の険しい山々であり、故に耕地面積は総面積の0.2パーセントに過ぎない。反対に林野のそれは95.9%。司馬遼太郎が「大山塊」と形容したのも頷ける。
   村は55の集落からなり、2017年1月1日現在、1841世帯3488人が暮らしている(十津川村のホームページより)。そして、日本の多くの田舎同様、いやそれ以上に高齢者の割合は高く、多くの集落が限界集落となっている。村内には風屋、二津野の2つのダムがあるが、これらのダムの建設が始まった1960年頃には村外から多くの建設作業員が押し寄せ、人口が1万5000人を超えていた時期もある。
   村の主たる産業は、林業、農業のほか、源泉掛け流しの温泉が湧くことから観光業も盛んで、20軒以上の温泉旅館、民宿が点在する。
   かつては、55の字にすべて小学校があった。近年は統合が進み、今年度末でさらに3校が統合するという。中学校と高校が一校ずつ。高校は、奈良県最古の高校である十津川高校で、1864年、孝明天皇の勅許によって創設された(創設当時は文武館という呼称だった)輝かしい歴史を持つ。

十津川村ウェブサイトより

十津川高校(十津川村ウェブサイトより

   どうでもいいことだが、村に信号機は3機、そのうち2機は押しボタン式なので、交差点の信号機は村役場前の1機だけだという。

   数字だけを見れば、どこの地方にもある寒村のひとつでしかない。しかしながら、十津川が担ってきた歴史は、そんなプロフィールからは想像もつかない物語性に満ちている。

十津川というナラティブ

   十津川の人々が日本史に初めて登場したのは、7世紀、壬申の乱のときだった。吉野に隠棲していた大海人皇子が、天智天皇崩御ののち挙兵、そのまま大友皇子を打ち破った、日本史の授業では必ず出てくるあの内乱である。十津川村の年表にはこう描書かれている。
「672年 弘文元年 壬申の乱の際、郷人は天武天皇(大海人皇子)に従い、功あって三光の御旗及び御製を賜って租税も勅免されたと伝える。」
   この"郷人"というのが十津川の人々である。三光とは太陽、月、星の3つの紋のことであろう。御製(ぎょせい)というのは天皇の詠んだ和歌のことで、それは
「とをつ川吉野の国栖のいつしかと 仕へぞまつる君がはじめに」
という歌であったと伝えられている。
   そして、このときの功により免租地となった。以来、明治6年(1873年)に地租法が改正されるまでの約1200年間、十津川は年貢を納めなくてよい別天地だった。

   とんと十津川御赦免どころ 年貢いらずのつくりどり

十津川村ウェブサイトより

御赦免地歌碑(十津川村ウェブサイトより

   五條市大塔町を通って、村境の城門トンネルを抜けたところに、上の歌が彫られた歌碑が建っている。江戸のころに歌われた里唄ということらしい。太閤検地を経ても、徳川の時代になっても、十津川は免租地であり続けた。司馬遼太郎はそのことについて「そもそも年貢である米を作るだけの平地が(十津川には)なかった」からではないかと考察している。租税を課したとしても、その租となるべき米が獲れないのでは租税の意味がないからだ。
   それにしても......村の年表が壬申の乱から始まるなどというのは、日本広しと言えどもこの十津川村くらいではないか、と思う。

   14世紀にも十津川は登場する。建武の新政の崩壊後、後醍醐天皇は吉野に入り自らの朝廷を開く。いわゆる南北朝時代。その忠臣として名高い楠木正成の孫に楠木正勝がいた。正勝は、祖父、父の遺志を継ぎ、南朝の武将として奮戦するものの、北朝側の武将、畠山基国の軍勢に破れ、根拠城としていた千早城を失う。その後、再起を図るために、弟である正元とともに十津川に逃れた、という歴史の一場面としてこの村が登場する。正勝は10年ほど十津川に潜伏したが、再挙を果たせず病没、この地に葬られたと伝えられる。その楠木正勝が隠棲した武蔵という集落に正勝の墓がある。今も毎年4月3日に、村人によって追悼祭が営まれている。

楠木正勝の墓所。佐久間信盛の墓も同じ場所にある。

楠木正勝の墓所。佐久間信盛の墓も同じ場所にある。

   十津川の名前をもっとも有名にしたのは幕末に活躍した十津川郷士であることは間違いない。天誅組に2000人もの郷士が参加した(のち、朝敵となったことが判明し離脱)との記録がある。京都にも屋敷を構え(「十津川屋敷」と呼ばれた)、およそ200名が御所の守衛として働いた。これを村では「京詰」と呼んだらしい。勤王の志士の一翼を担っていたのである。戊辰戦争でも十津川郷士たちは、北越、奥州、函館と多くの犠牲を払いながらも従軍した。維新後、新政府から下賜された恩賞は、先に述べた文武館、のちの十津川高校の校舎建設と維持に充てられた。
   もっとも有名な逸話は、坂本龍馬が京都・近江屋で暗殺されたとき、暗殺者たちは店先で「十津川郷の者」だと嘘をついて店の者を安心させたことだ。十津川郷士たちは、それほど龍馬やその仲間たちから信用されていた。龍馬は、とりわけ中井庄五郎という若い十津川郷士を可愛がっていて、「青江吉次」と鑑定された刀を彼に贈っている。十津川村役場近くにある歴史民俗資料館には、刀を贈られたときに添えてあった、龍馬直筆の手紙が所蔵されている。

   ほかにも保元の乱にも参加したという話(『保元物語』)、大坂冬の陣で徳川方について戦ったという話、などなど、十津川は日本の歴史の節目にことごとく顔を覗かせている。この規模の村、言ってみれば寒村で、これほど華々しい歴史を有する村をほかに知らない。

   その村の人口減少が加速している。

   取材中、村の人から聞いた逸話に、こんなものがあった。
   ――遠い昔、紀伊半島を桁違いの大津波が襲った。その津波は熊野の山々を呑み込みながらここ十津川に迫ろうとしていた。そのとき、一匹の犬が、玉置山中腹の杉の木の切り株の上に立ち、大津波に向かって一声「ワン!」と吠えた。すると、猛り狂っていた津波は瞬時におとなしくなり、みるみるうちに引いていったという――

   グローバリズムによってできた都市と地方の大きな歪み、十津川を襲う人口減少という津波は、この断層が引き起こしたものだ。次回からは、その景色について詳述する。

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筆者:福岡俊弘

編集者。1957年生。早稲田大学卒。1989年、アスキー社入社。コンピューター情報誌『EYE・COM』編集長を経て、1997年『週刊アスキー』を創刊、同誌編集長。TBSラジオ『スタンバイ』のコメンテーターなども務めた。現在、デジタルハリウッド大学教授。
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