カッターシャツ=学生のイメージは、どうして根付いたの?
欧米生まれの「(ドレス)シャツ」。日本に入って「ホワイトシャツ→ワイシャツ」に変化し、もっぱら背広用シャツという意味で使われる。
一方、スポーツメーカーのミズノ(旧名:美津濃)は1918年、「カッターシャツ」という商品名で売り出したところ大当たりし、西日本を中心にこの言い方が広まった――というのが通説だ。
Jタウンネットも当初、この通説に従いワイシャツ=カッターシャツという前提でアンケートを実施した。
その結果を「東の「ワイシャツ」、西の「カッター」...境界線調査は意外な結果に!?」で報じたのだが、「えっ、ワイシャツとカッターシャツって別物じゃないの?」という声が相次いで寄せられた。 そのほとんどは「学生用がカッターで、社会人がワイシャツでは?」という指摘だ。
岡山と兵庫県民「カッターシャツはワイシャツにあらず」
そこで編集部は改めてアンケートを実施した。以下の選択肢からどれか一つを選ぶというもので、225名の方に投票いただいた。
- 同じ
- 学生がカッターで大人がワイシャツ
- 白無地がカッターで柄モノがワイシャツ
- 上記以外の理由で別物
- カッターという言葉を使わない
その結果は以下のとおり。「学生がカッターで、大人がワイシャツ」という認識は、西日本を中心にある程度幅広い範囲に存在することがわかる。
特に兵庫と岡山で「カッター=学生」という認識は根強い。両県は大阪の影響が強い土地柄にもかかわらず、前回の投票で「カッター」の得票率が低かった県でもある。
岡山県は男女学生服生産で69.2%のシェアを誇る「学生服王国」だ。業界大手の菅公学生服(カンコー)、明石被服興業(富士ヨット)、トンボの3社はいずれも県内に本社がある。
岡山で学生服の生産が始まったのは1921年頃のこと。カッターシャツ発売の数年後だ。 1923年9月には関東大震災が発生。アメリカからの救援衣料が大量流入し、日本の洋服化は一気に進んだ。
ここからは仮説であるが、「カッター+学生服」という組み合わせが大正後半~戦前にかけて定着し、その影響が今に及んでいるのかもしれない。
ミズノの本社がある大阪は「同じ」が54.5%を占めたが、「学生=カッター、大人=ワイシャツ」も36.4%を占めた。
このほかの名称として「スクールシャツ」(学生向け)、「ニットシャツ」などを用いる学生服販売店がある。
神奈川は「上記以外の理由で別物」の得票率が23.5%と比較的高かったが、これらの商品名に親しんだ人が投票したのだろうか。
そもそもミズノのカッターシャツってどんなものだったの?
学生向けの洋品雑貨店として大阪で創業したミズノ。そこから運動服装製造に乗り出し、運動用品も手がける総合メーカーとして確固たる地位を占めている。
同社は1923年創刊のスポーツ誌「アサヒスポーツ」に第1号から931号まで1ページ広告を出稿し続けた。同社の公式サイトを開くと戦前の広告ページを見ることができ、カッターシャツが写真入りで掲載されている。
モノクロページにつき実物の色彩は不明だが、無地ではなくストライプ。次の宣伝文句を読む限り、いろいろと着回しできるレジャーウェアのように見える。
春の軽装 カッターシャツ
ハイキングに・テニスに・事務用に
創業者の伝記『スポーツは陸から海から大空へ 水野利八物語』(ベースボールマガジン社)には次のように記されている。
「大阪のファッションリーダーとして、オーバースェーター、カッターシャツ、ボストンバッグ、ランパン、ポロシャツなど次々と新しいネーミングのアイデア商品を生み出す」
「店員にスポーティな服装をさせ古い船場でファッションの元祖を誇示」
スポーツウェアを着る余裕のあった人はまだ一握りだった戦前の日本。一種のステータスシンボルだったことは想像に難くない。
当時の運動選手は現在のタレント並みの人気があった。プロ選手も珍しかった当時だから、学生選手も少なくない。ミズノも商品に六大学野球の選手たちのブロマイドを景品に付けて売りに売ったという。このあたりも、学生=カッターのイメージに結びついた可能性はある。