消毒液を「毒薬」と思いこんだ住民が暴徒化し... コレラ蔓延した鴨川で孤軍奮闘した医師の末路に「歴史を学ぶ重要さ実感」
「歴史を学ぶことの重要さを更に実感」
次にJタウンネット記者は、鴨川市役所にも問い合わせてみた。
取材に応じたのは、鴨川市の郷土資料館の担当者だった。
「烈医沼野玄昌先生弔魂碑」は、1978(昭和53)年6月、殉難第百年忌を迎えるにあたり、鴨川市・天津小湊町・安房医師会が協議して実行委員会を結成し、建設したもの。
今から約45年前に建てられ、最近では碑文が読めないほど、すっかり地衣類が付いていたらしいが今回の清掃の結果、かなり読めるようになったのだという。
そこに書かれているのは、沼野医師が防疫のために用いた「消毒用薬液」を、恐怖におののく大衆は「毒薬」だと妄想し、暴徒と化して医師を殺害したことだ。
幕末から明治初期、日本各地を襲ったと伝えられるコレラ禍に、千葉県南房総の地で孤軍奮闘していた一人の医師の存在。白石医師による石碑の紹介に対し、ツイッターでは、こんな声が上がっている。
「勉強になりました... 沼野玄昌先生...すごい...」
「今知った。決して忘れまい」
「教科書に載せたい方。歴史を学ぶことの重要さを更に実感しました」
歴史の中で繰り返し人類を襲う疫病、災害、戦争――我々は厳しい史実にこそ、学ぶ必要があるのかもしれない。
興味のある方は、鴨川市貝渚にある汐留公園を訪ね、彼の足跡を辿ってみるのはいかがだろう。鴨川市図書館には、当時の記念誌も公開されている。
なお、建設当時発行された「沼野玄昌先生百年忌記念誌」の中に記されている碑文の全文は以下の通り。
「状を按ずるに先生は天保七年旗本萬年左十郎二男として出生 十二歳にして本郡小湊の医家沼野家の養子となり医学を佐倉順天堂佐藤泰然同舜海に師事すること十年俊秀の誉れ高く 小湊に帰村後その仁術を施して至らざるなし
明治十年全国に流行せるコレラが鴨川地方に蔓延し罹患するもの四百余名に及ぶや明治政府終いに官令を発して先生をしてその治療と防疫に当らしむ 先生身を挺して危地にのぞみ施療防疫に従事するも 恐怖に戦く大衆は消毒用薬液も反って毒液の如く妄想し ついに暴徒と化して先生を急襲し加茂川河畔において謀殺す 時に世寿四十二歳なり 後年その非業の最後に涙して慰霊の小碑を建つと雖も痛恨哀惜言うことを知らざるなり。
今や星霜を重ねて正當百年忌を迎えるにあたり 有志相計り改めて此処痛恨の地を整えて偉大な先覚の芳勲を偲び 至心に弔魂して烈医沼野玄昌先生の医業を顕彰するものなり」(沼野玄昌先生)