ようやく家に帰れるのに「不安と恐怖で動けなかった」 津波を経験した女性が語った記憶と、伝えたい「ありがとう」
明日――2022年3月11日、東日本大震災の発生から11年になる。
最大震度7を記録し、大規模な津波が広範囲にわたって沿岸部に押し寄せるなど、甚大な爪痕を残した未曽有の大災害。
その日の記憶を、宮城県在住のJタウンネット読者・Aさん(30代女性)が編集部に語ってくれた。
Aさんは宮城県多賀城市の職場で被災。同市は仙台港の北に位置し、津波で3分の1の面積が浸水した。
彼女は建物の3階に避難したが、水は2階の天井にまで迫ってきていたという。
翌朝、なんとか外に出ることができたものの、Aさんは不安と恐怖で動けなくなってしまう。そんな時、声をかけてくれた人がいた。
「自分もこの後どうなってしまうのか」
11年前の3月11日、派遣社員として勤めていた私は、宮城県多賀城市にある当時の職場で東日本大震災に遭いました。
幸いにも大きな建物の3階に避難ができ、2階の天井まで迫ってきた津波や窓の外の恐ろしい景色を震えながら見ていました。
なんとか携帯電話の充電が切れる前に家族に無事を知らせることはできたものの、外に出ることは到底できません。
ダンボールやビニールシートで防寒しつつ、ロッカーに置いていた飴を舐めるなどして朝を待ちました。
男性社員の方々が会社にあるものでボートを作り、看板にしがみいている人や、車の上に乗ったまま動けなくなってしまった方を助けていたのを覚えています。
残念ながら手遅れになってしまった方もいて、自分もこの後どうなってしまうのかと不安しかありませんでした。
「1人になった途端に不安と恐怖で動けない」
翌朝、自衛隊の方々のおかげで外へ。津波で押し寄せた大量の車の上に毛布を敷いて、肩まで水に浸かった隊員の方の手を掴んで進んでいき、膝上くらいまで水が引いた道路に出られました。
その後、帰宅する方向ごとに数人でグループ分けされ、泥水で足元が見えないためマンホールへの落下やガレキで怪我をしないよう、自衛隊の方が先頭に立って1列で進みます。
なんとか水が完全に引いた所まで着くと、そこでグループは解散。私は1人になった途端に不安と恐怖で動けなくなってしまいました。
「どの道なら歩けるだろうか
家まで何時間かかるのだろうか」
そんなことを考えて立ち尽くす私に声をかけてくれたのは、同じグループにいた一人の男性でした。
彼は私を自宅まで案内してくれて、そこから車で私の家まで送ってくださったんです。
今でも悔やんでいることは...
その方の顔も名前も、車もどんなのだったかも思い出せません。どんな会話をしたのかも覚えていなくて、気づいたら家の前に到着し、彼は私を降ろすとすぐに帰っていきました。
たくさんの方が辛い思いをした中で、自衛隊員の方やその男性のおかげで無事に帰って家族と再会できた私は、本当に幸せです。
今でも悔やんでいるのは、不安でパニック状態だったとはいえ、送ってくれた男性にちゃんとお礼ができなかったこと。
やっと自宅に戻れて、他にやらなければいけないこともきっとたくさんあったはずです。それなのにいつ補充できるかもわからない貴重なガソリンを見ず知らずの私のために減らしてまで、送り届けてくださって、本当にありがとうございました。この場を借りて心からの感謝を伝えたいです。
どうか届きますように。
誰かに伝えたい「あの時はありがとう」、聞かせて!
名前も知らない、どこにいるかもわからない......。そんな、あの時自分を助けてくれた・親切にしてくれた人に伝えたい「ありがとう」を心の中に秘めている、という人もいるだろう。
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