ロート製薬とツムラの創業者が、兄弟だって知ってた? 彼らが生まれた「薬のまち」宇陀市に迫る
薬のまち、というと富山を思い浮かべる人が多いだろう。だが、奈良県にも薬のまちがあることを、ご存知だろうか。
奈良県北東部に位置する宇陀(うだ)市は、古来より薬のまちとして知られている。
ロート製薬の創業者・山田安民、ツムラの創業者・津村重舎、「命の母」(現在は小林製薬が販売)を生み出した笹岡薬品の創業者・笹岡省三も宇陀市の出身だ(ちなみに、山田安民と津村重舎は実の兄弟である)。
そして、現在はアステラス製薬となった「藤沢薬品工業」の創設者・藤沢友吉も、宇陀市と深いかかわりを持つ。
このことが2021年8月末、ツイッターで話題となった。
宇陀市と薬の関わりとは、いったいどんなもの?
Jタウンネット記者は、宇陀市教育委員会に取材した。
薬との関わりは、古墳時代から飛鳥時代に遡る
Jタウンネットの取材に応じたのは、宇陀市教育委員会文化財課の担当者だった。
宇陀地域と薬との関わりは、古墳時代から飛鳥時代に遡るそうだ。
「『日本書紀』推古19 (611)年5月条に次の記載があります。
『夏五月五日、兎田野に薬猟す。鶏明時を取りて藤原池の上に集ひ、会明を以て往く。...... 』
兎田野は宇陀野(宇陀の大野)であり、阿紀神社を中心とした阿騎野のことを指すと考えられます。この記事は史料的に確認できるわが国最初の『薬猟』の記録です。薬猟は、古代に五月五日に行われた宮廷行事のことであり、男性は薬効の大きい鹿の角をとり、女性は薬草を摘んだそうです」(宇陀市教育委員会文化財課担当者)
つまり約1400年前、鹿の角は薬効があるということで、それを取るために宇陀の地で猟をしていたらしい。その様子が宮廷行事として、「日本書紀」に記録されているのだ。宇陀地域は王権の薬猟地として知られていたようだ。
宇陀市教育委員会の担当者は、他にも、古今のさまざまな文献をもとに、宇陀地域と薬との密接な関係を克明に説明してくれた。
その中で紹介されたのが、史跡森野旧薬園と、宇陀市歴史文化館「薬の館」という施設だ。現在の住所でいうと、どちらも阿紀神社とおなじ、「宇陀市大宇陀」に所在する。
江戸時代には50軒以上の薬問屋が並んでいた
飛鳥時代から、時代は一気に進むが、史跡森野旧薬園は、1729(享保14)年に造られた、現存する国内最古の私設薬園だ。当時、薬園といえば幕府官設の薬園や藩営の薬園がほとんどだったが、民間での私設の薬園は極めて少なかったという。
県のウェブサイトによると、江戸時代の大宇陀では、50軒以上の薬問屋が軒を並べていた。「薬の館」はそんな大宇陀の地に建つ、旧細川家の住宅だ。
通りに面して、家業である薬問屋を表す「天寿丸・人参五臓圓」(胃腸薬の名前)と書かれた「銅板葺唐破風付看板」が掲げられている。
「細川家2代目当主・治助の二女・満津の長男・友吉は、1882(明治15)年、藤沢家の養子となり、藤沢薬品工業(現アステラス製薬)を創設しました」(宇陀市教育委員会文化財課担当者)
宇陀市の広報誌「広報うだ」2020年2月号によると、藤沢友吉は大阪で承認の修行をするまでの間、三重県の名張市で過ごしたが、この細川家にもたびたび訪れていたという。
なお、「薬の館」には現在、宇陀市内松山地区に残る薬関係の史料や薬の看板などが展示されているそうだ。
ツイッターには、この宇陀市について、こんな声が寄せられている。
「薬の館。旧藤沢薬品工業(現アステラス製薬)の私設資料館の趣きだが市の歴史資料館の分館になっている。ホーロー看板やら木製の古い看板やらが大量にあったので自分向け過ぎる」
「津村重舎は家伝の中将湯を煎じた残渣から入浴剤を作り、それがバスクリンのもととなったとか。この家伝の漢方薬というところにこの地域の特異性を感じる」
「確かに、古代の朝廷があった奈良で製薬が行われていたのは当然のことですよね」
「薬師の地でござったか」
奈良県は、やはり奥が深い。飛鳥時代よりもっとずっと昔まで、遡らなければならないのだ。