太宰の墓にサクランボ押し込む「謎の風習」 誰が何のために?そのルーツを追った
弟子の著書を紐解くと...
太宰は1948年6月13日、山崎富栄という女性と共に玉川上水に入水心中し、19日に遺体で発見された。「桜桃忌」という名前は、太宰が死の直前に書いた短編小説「桜桃」と、この季節に実るサクランボが太宰のイメージに最もふさわしいとして採用された。
太宰の弟子の1人である桂英澄の著書「桜桃忌の三十三年」には、桜桃忌が始まった当初の様子が綴られている。
桂は自身の療養期間を除き、死の翌年の第1回から桜桃忌の集まりに出席している。著書によれば、発足当時は太宰と直接親交のあった人たちが遺族を招き、桜桃をつまみながら酒を酌み交わして太宰を偲んだという。
初回から桜桃忌の中心になったのは、太宰と親交の深かった亀井勝一郎。5、6回頃になると顔触れも固定してきた。その中には、佐藤春夫や井伏鱒二などの大家も含まれている。
墓に彫られた名前は太宰の筆跡をそのまま使ったものだという。サクランボを詰め込む行為については、36、37ページに以下のような記載がある。
「桜桃と酒を墓前に供えるのはむろんだが、『太宰治』という文字の窪みに鮮紅色の桜桃を点々と連ねて嵌めこむことは誰がはじめたのであろう。墓石に酒を注ぐのとともに、いつとなくつきものの行事のようになっている」
いつ誰が始めたかは分からないが、少なくともこの書籍が刊行(1981年)される前からずっと続いているようだ。
とはいえ日が経てばサクランボも腐り、片付けが大変なのではないだろうか。2019年6月21日、禅林寺に聞いてみたが、桜桃忌は禅林寺が特段何かを行っているわけではなく、サクランボを詰めることに対しては「良い悪いもない」とのことだった。
(Jタウンネット編集部 笹木萌)