原爆投下から73年、埋もれた「金輪島の記憶」
負傷者が多数運ばれた
「宇品から金輪島に送られたことが分かって、9日に亡くなったと知りました」
「金輪島の収容所に運ばれて、苦しみの中で幾日を過ごされたか、どのような終えんを迎えられたかは、計り知ることはできません」
毎年1回おこなわれる慰霊祭では、人々が慰霊碑に語りかけます。
金輪島は現在、人口71人。島には、信号機も、買い物ができる店もありません。
過去には「秘密の島」として、戦争と共に歴史を歩んできました。日清戦争が始まった1894年に陸軍の工場が設置され、軍の管理下に置かれたため、民間人は立ち入り禁止となっていました。
その後は水上特攻隊の養成などもおこなう、通称「暁部隊」の拠点に。あらゆる船の製造に着手したほか、弾薬や兵器を保管し、常に戦力を維持する重要基地として、機密性を高めていったのです。
そして、1945年8月6日。原子爆弾で全てを奪われた町並みの写真には、金輪島の姿も映されていました。原爆投下から15分後、島で撮影されたきのこ雲の写真があります。爆心地からおよそ6km離れたこの島でも、爆風で屋根や窓ガラスが吹き飛び、原爆で生じた熱を肌で感じるほどだったといいます。
そしてしばらくすると、宇品の港に押し寄せた負傷者が、金輪島にも運ばれてきたのです。工場の兵舎や倉庫に運ばれた人数は、500人とも、2000人ともいわれています。
田辺芳郎さんは金輪島で亡くした父の遺骨を探していますが、記録も残されておらず地図からも消されたこの島での捜索は困難をきわめているといいます。田辺さんの父・次郎さんは爆心地から約1kmの自宅で被爆し、収容所の立て札から金輪島に運ばれたことが分かったそうです。島で亡くなった人のうち、身元が明らかなのは数十人ほどだといいます。
田辺さんをはじめ、遺族たちによって建てられた慰霊碑。金輪島で、原爆によって亡くなった人がいることを示す、唯一のものです。毎年10月、真夏の暑さが過ぎ去った後、慰霊祭が開かれます。
「原爆を使ってはいけないという実態を、知ってもらうことが大事だと思うんですね」
「金輪島を忘れていく、慰霊碑を忘れていく、そういうことがないようにしないと」(田辺さん)
金輪島には、長らく慰霊碑がありませんでしたが、今から20年前に遺族によって建てられました。
遺族の方の高齢化も進む中、記憶に埋もれてしまうことのないよう、生きている私たちがこの記憶を語り継がねばならないと感じました。(ライター・石田こよみ)