ココからあなたの
都道府県を選択!
全国
猛者
自販機
家族
グルメ
あの時はありがとう
旅先いい話

「看板建築」って知ってる? 江戸東京たてもの園で勉強してきた

Jタウンネット編集部

Jタウンネット編集部

2018.06.07 11:00
0

「看板建築」――という言葉を見たことがある人はどのくらいいるだろうか。お世辞にも多いとは言えないだろう。

筆者も全く知らなかった言葉だったが、一体どんな建築を指すのだろうか。Jタウンネット編集部の記者は「看板建築展」が開かれているという、東京都立小金井公園内の「江戸東京たてもの園」へ向かった。

「看板建築」のきっかけは関東大震災だった

「看板建築」の「三省堂(さんしょうどう)」。看板のように平らなところが特徴だ(写真は2018年6月1日Jタウンネット編集部撮影・以下同)

「看板建築」の「三省堂(さんしょうどう)」。看板のように平らなところが特徴だ(写真は2018年6月1日Jタウンネット編集部撮影・以下同)

東京の歴史的建造物を移築した「江戸東京たてもの園」では、2018年7月8日まで、「看板建築展」が開催されている(月曜日は休園)。

ここから「江戸東京たてもの園」に入る。梅雨が近いというのに素晴らしい快晴だった

ここから「江戸東京たてもの園」に入る。梅雨が近いというのに素晴らしい快晴だった

「看板建築」とは、平らな壁面に銅板やタイルが貼られた木造の商店建築のこと。横から見ると、建物正面がほぼまっすぐなのが特徴で、現在も神田神保町などに多く残っている。そのため当初は「例の神田のやつ」などと呼ばれていたというが、1970年代に建築史家の堀勇良さんらによって「看板建築」の名がつけられた。

植村商店。戸袋などを銅で包んでおり、雨よけ付近や頂上部のデザインが目を引く。上のイスラエル国旗のような星印の中には「US」と書かれており、「Uemura Shoten」の略称とみられる

植村商店。戸袋などを銅で包んでおり、雨よけ付近や頂上部のデザインが目を引く。上のイスラエル国旗のような星印の中には「US」と書かれており、「Uemura Shoten」の略称とみられる

横から見るとほぼまっすぐだ

横から見るとほぼまっすぐだ

「看板建築」の始まりは、1923年(大正12年)の関東大震災で多くの建物が倒壊したことだ。焼け野原となった街並みを復興させるため、バラックで仮設の商店を立てた。その際に民俗学研究者の今和次郎(こん・わじろう)氏がバラックを「美しくする仕事一切」を請け負う「バラック装飾社」を立ち上げ、バラックの装飾に尽力。これがのちの「看板建築」に大きな影響を及ぼした。

当時のバラック建築「カフェー・キリン」。仮設とは思えないほどのクオリティだ

当時のバラック建築「カフェー・キリン」。仮設とは思えないほどのクオリティだ

バラックの資生堂出雲町店の外観デザイン

バラックの資生堂出雲町店の外観デザイン

その後、本格的に町の復興がスタート。当時は3階建ての建物を作ることが禁じられていたため、3階部分は当初「屋根裏部屋」の扱いだったという。その後の法改正で3階の建築が認められるようになり、冒頭に写真を載せた「三省堂」のように、窓のある3階がみられるようになった。

復興の際には鉄筋コンクリートを用いた建物も多く建てられ、木造でも伝統的に「出桁造り(だしげたづくり)」という手法が用いられることが多かった中、木造の建物の表面に銅板やタイルを張り、建築家が意匠を凝らした「看板建築」が作られ始めたという。

「出桁造り」では、屋根部分近くから柱が出ているのが特徴だ

「出桁造り」では、屋根部分近くから柱が出ているのが特徴だ

そんな「看板建築」には、5つの特徴がある。

1)間口が狭く、奥行きがある建物が多い
2)木造建築で、建物の正面部分(ファザード)が平坦
3)建物の正面部分は銅板やタイルを張ったり、モルタルで仕上げる
4)屋根には「腰折れ屋根(マンサード屋根・ギャンブレル屋根)」を用いることが多い
5)建物表面の装飾が豊かで銅板張りの質が精緻

1)は、「建物建築展」にあった模型を見てみるとよく分かる。細長い形状の家ながら建物の表面に装飾が施されている。2)は先にみた通りで、狭いながらも少しでもスペースを有効に用いるかを考えたものだ。

town20180606180651.jpg


4)の「腰折れ屋根」とは、下の赤い丸の屋根の部分のこと。二段階に曲がっていることがわかる。

town20180606180711.jpg


ほか、5)についても、以下の写真を見てみると、非常に細かいところながら、花や枝を模した微細な柄が描かれていることが分かる。

ちなみにこの建物はお花屋さん

ちなみにこの建物はお花屋さん

こうした「看板建築」の建物は、昭和に入ってからもしばらく存在していたものの、バブル時代の再開発などで建て替えが行われたという。残っているのは「江戸東京たてもの園」の調査では以下の通り。黄色の場所が残っている場所、緑の部分は園に移設されたもの、白はすでに存在しない場所だ。

概ね半分くらいは残っている印象。今後も再開発が進めば、知らない間に「看板建築」も無くなっていってしまうのかも

概ね半分くらいは残っている印象。今後も再開発が進めば、知らない間に「看板建築」も無くなっていってしまうのかも

現在、埼玉県の川越市や茨城県の石岡市、静岡県の三島市などに「看板建築」は残存している。東京都でも、青梅駅周辺の青梅街道付近の街並みや、中央区日本橋などにもあり、さらには編集部からも近い千代田区神田神保町にもあるそうだ。

「これは見に行くしかない」

そう直感した筆者は、カメラを持って電車へと乗り込んだのであった――。(つづく

PAGETOP