なんで南三陸町に「モアイ像」があるの?
きっかけはチリ地震
南三陸町とモアイの関係は、かつて南三陸さんさん商店街にあった大きなモアイ像から始まります。宮城県志津川高等学校の主幹教諭によると、1960年のチリ地震津波により旧志津川町(現南三陸町)は甚大な被害を受けてしまいます。それから30年経ち、当時の駐日チリ大使が南三陸を訪れ、多くの犠牲者を出した旧志津川町とチリの友好と防災のシンボルとして、1991年にモアイ像が作られたとの事です。
それ以降、志津川町はモアイのある町として知られる事となるのですが、2011年3月に東日本大震災の津波により流されてしまい、モアイ像は破損してしまいます。その頭部のみが現在、志津川高校の前に設置されているのです。
志津川高校では、2010年より授業の中で「南三陸モアイ化計画」という、町おこしの取り組みを行っているそうです。情報ビジネス科では、授業の一環としてモアイ像をキャラクター化し、缶バッジやストラップ、かるた等を製作しています。モアイグッズの売上げは、震災によって壊されてしまった町民バスを購入し、2016年12月に寄付した実績もあるのです。
この「南三陸モアイ化計画」は震災後大きな反響を呼び、2012年3月、当時のチリ共和国ピニェラ大統領が志津川高校を訪れた際、「破壊されたモアイよりも壮大で美しいモアイ像を贈らせてください」と、旧南三陸さんさん商店街の跡地に建っているモアイ像を贈ってくれました。
贈られたモアイ像は、通常は持ち出す事が禁じられているイースター島の石を使って彫られた貴重なモアイ像です。イースター島では目の事を「マナ」と言い、モアイ像に目が入ると魂が入ると言われているのです。
また、頭が長いのは「プカ」という帽子を被っているからです。プカを被ったモアイは、位が高いと言われています。
「モアイ」の意味は「未来に生きる」。南三陸を元気づけるために、位の高いモアイ像をチリが贈ってくれたのです。南三陸町のモアイ像には、二つの震災からの復興の願いが込められていたのです。(ライター:佐藤憲子)