ココからあなたの
都道府県を選択!
全国
猛者
自販機
家族
グルメ
あの時はありがとう
旅先いい話

83歳筆者が暮らしてきた街...都会の中の田舎人、田舎の中の都会人

ぶらいおん

ぶらいおん

2017.03.07 11:00
0

都会と田舎、双方の長所と短所がわかる

<都会の中の田舎人or田舎の中の都会人>

   実は、この表題はインターネット上、何処かの、筆者自身のプロフィール中で、自分をアピールするために使用しているフレーズである。

   そして今は、県庁所在地とは言え、東京に比べれば、田舎に違いない、海の傍の関西一地方都市に住んでいるのだから、後半の句『田舎の中の都会人』という立場だ。

   先週の、公民館活動、生涯学習のパソコン教室で、生徒の一人から「先生は東京の何処に、どの位住んで居られたのですか?」と問われた。

   筆者の答えは、こうなる。

   生まれたのは、今の西新宿、東京都庁が建っている辺り、その頃のアドレス表記では「東京市淀橋区柏木...」となるが、程なく親が引っ越したので、物心ついたときは、今の池袋西口から、徒歩で15-20分の要町(今なら、地下鉄)居住が長く、小学校も地元で、集団疎開や縁故疎開で東京を離れるまで、5年生までここに通った。

   実は借家の、この家は空襲にも焼け残ったので、筆者が、私たちの世代で最後となる旧制都立中学校を受験するために帰京した際には、この家に戻ることが出来た。合格した中学校にも、暫く、この家から通うことになった。

   少し、世の中も落ち着いて来て、後から、筆者と同じ所(紀南の父の実家)に縁故疎開していた母と弟妹達が帰って来て、それなりにみんな大きくなったし、この家も手狭となり、父が池袋の奥の方の高松という所に庭付き中古住宅を買い求めた。この家は部屋数も多く、洋風の応接間もある、可成り立派な家であった。筆者が、これまでの人生で住んだ最も立派な家だったかも知れない。

   ただ、池袋駅からは(当時はバスか、徒歩かで少なからぬ時間が掛かった。今なら(確認したことは無いが)地下鉄の千川駅から然程遠くないはずだ。中学校の間のほぼ全て、と多分高校生の低学年の間は、ここから通学した。

   その後、筆者が高校高学年になったとき、歯科大学に勤務していた父が、学校を辞め、歯科医院を開業することになり、池袋駅西口から至近の場所に医院兼自宅を新築したので、筆者自身も含め、家族全員で引っ越した。

   この家からは、高校を卒業し、その後の予備校通いも含め、大学入学、転部、卒業するまで通学し、そして父が亡くなり、筆者が社会人となり、結婚し、第一子を設けるまで、ここで暮らした。

   このように、池袋の繁華街のど真ん中で若い時代を過ごしているので、眠らない街と言われる大都会東京の、一応の裏表を良くも悪くも見聞きし、体験していると言えよう。無論、池袋ばかりで無く、大学教養部の医学進学課程の頃は通学先が新宿を経由していたので、今でも心情的には新宿が一番馴染み深い。この話を進めて行けば、ゴールデン街と呼ばれる飲み屋タウンの一角で出会った人々の話へと発展し、それだけで、コラムの2本や3本直ぐに書けてしまいそうだが、ここでは一つだけ、エピソードを挙げて置こう。

   ちょっと見知った、そのゴールデン街のとある店へ一人で入り、カウンター席でビールを飲んでいたら、偶々隣に座り合わせ、ビールを気持ちよいピッチで飲み干す若い女性(最初は、その向こう側の若い男性と話が弾んでいた様子なので、てっきり二人連れ、と思っていたら、男性は勘定を済ませ、先に出て行ってしまった。)と言葉を交わすことになった。

   彼女も、この店のオーナーと知り合いで、一人で立ち寄ったらしい。確か、彼女は当時名の知れた写真家のアシスタントをしており、その後、或る雑誌社の編集者としても活躍されたようだ。

   この話も書き出せば、色々と面白い道筋があるが、このR.H.さん(以下、R子さんと呼ぶ。)も、南米を歩き回ったり、また、タイトル「ダーリンはフランス人、しかもシェフ」という本を出したりしているユニークな方で、今でもSNS上で筆者と交流がある上、実は本コラムの熱心な読者の一人にもなって下さっている。

   R子さんは、昨年(2016年)夏頃まで東京の石神井公園で「マルシェロロ」というフレンチ・レストランをダーリンのロロさんと営業されて来たが、介護の問題もあって、今は故郷の金沢に帰郷され、実家でレストラン開業の準備をされている。

   無論、人との出会い、そして別れも、その当事者同士が兼ね備えている「何か或るもの」によって、展開が異なって行くのであろうから一概には言えぬが、こうして、世の中の、普通の基準から言えば、格別深い交流があったというわけでも無いのに、最初に、ゴールデン街の、とある店で偶然、隣り合わせに座っただけで、筆者が東京を離れてからも、石神井公園にあったレストランに、友人たちを引き連れて訪ねて行ったり、これからも、もし、筆者の足腰が自身の移動に耐える内なら、また金沢のレストランで言葉を交わす機会だってあるかも知れないのである。

   筆者が、ここで言いたかったのは、こんな(洒落た?)出会いと交流に恵まれるのが、都会であり、矢張り、田舎の環境と感覚だけで育って来ると、多少、その辺が異なるのではあるまいか?と独断しているわけである。

   さて、本筋に戻ることにしよう。

   その後、更に、筆者の妹たち3名もそれぞれ結婚して、この池袋駅至近の家を後にしたので、今や、格別の営業をして居ない建物としては不適切となった、住み慣れた家を処分し、筆者と家人、そして長男の3名は東京府中市へ引っ越し、母と当時まだ独身だった弟は一緒に藤沢市の方へ移って行った。

   こうして、筆者はサラリーマンとして日本橋や丸の内に通勤し、また、後にはフリーランスの技術翻訳者として、(今や、西新宿となった)自分の誕生の地に戻り、オフィスを借りてからは、この府中市の自宅からマイ・オフィスに通うことになる。

   日本では、その後、いわゆるバブル景気が訪れ、筆者のような、しがない自営業者のところにも大手銀行の営業マンが足繁く通って来て、賃借料を支払ってオフィスを借りるより、府中市の自宅と土地(そんなに広くも無いのに、ただ駅からは至近ではあった)の時価は今や、ウン億円なので、これを担保にすれば、当行はご希望通りの貸し出しを行いますから、好きな場所のオフィス・マンションを購入して下さい。それの方が、投資にもなるし、よっぽど得ですよ、と唆された。

   「本当に、そんなものか?」と些かの疑念もかすめ無いではなかったが、当時、確かに土地の価格は、都会に限らず、何処でも高騰するばかりで、投資としては、最も効率が良いように思えた。

   丁度、筆者も、都会の中で、自分の人生の時間が不確かに流れて行く、頼りなさを何となく感じていた矢先であり、心が動き始めていた頃に、3歳年下の妹が3人の子どもたちを残して、50歳を過ぎたばかりの若さで、心臓発作に襲われ急逝してしまった。

   これは、筆者にとっても、少なからずショックであった。自分では、時々人に「織田信長では無いが、人生50年!」と口にしたりしていたが、いざとなってみると、年下の身近な存在の「死」は、俄に受け入れ難いだけでは無く、少なからず、心を乱す痛恨事であった。

   今にして思えば、この突発事故は、先頃105歳の天寿を全うした母にとっては、さぞかし辛い青天の霹靂であったろう、と己が歳を経るほどに、その思いが強くなる。

   実を言うと、3歳年上で、当時50歳半ばを超えようとしていた筆者自身も、何となく胃腸の調子が優れず、体調も低下して、顔色も冴えなかったようだ。このままでは、生命の火も揺らぎ始め、下手をすれば消えてしまう恐れもあるかも知れない、と漠然とした不安を感じて居たような気がする。

   こんな状況も、決断の大きなきっかけの一つとなったことは否めない。

   もし、ここで、長男である筆者が欠けるようなことがあれば、母は一体どうなる?と考えると、何が何でも健康になって母をフォローせねばならない、という思いがフツフツと体内から湧き出して来た。

   そのためには、ここで心機一転、気分にも生活にも変化をもたらそう、と決心して、前から心の中にあった「海の傍で仕事したい」という願望の実現に向かって歩み出した。

   関東地方の伊豆半島、三浦半島、房総半島などの別荘地のマンションを見て回ったが、どうしても筆者の心の中にある「海」とは、「海が違うのだ」。

   「どう違うのか?」と問われれば、本当に分かって頂けるか、否か?保証の限りでは無いが、こう答えるより仕方なかろう。

   筆者が両親に抱かれて初めて見た海、小学生の頃は(戦時中を除き)略毎年夏休みを過ごしていた「海」、具体的には小説家、中上健次が描いた紀南の海「枯れ木灘」海岸とは、どうしても、関東の「海」は異なるのである。

   元々、筆者の中の「海」は海水浴場などでは無く、どちらかと言えば、波の荒い、磯釣りに適した岩礁地帯の多い、漁村の海なのである。

   幾ら探しても、関東地方の「海」が気に入らないなら、昔はE村で、今はS町に編入され、父の生家(本家)からも臨める、「枯れ木灘」近辺の海しか無いのではないか?とふと漏らした家人の発言で、思い切って東京から遠く離れた「海」も検討の範囲に入れることにした。

   こうして、当時まだ健在であった本家の従兄弟達の助けもあって、紀南白浜のマンションの一室を購入して、紀南事務所と定め、東京府中と紀南白浜の間を自家用車で行ったり来たりしながら、1年の内、通算では半年ずつ都会と海の傍で生活しつつ、技術翻訳作業をすることになり、これを続けることにした。

   先祖から引き継いだ遺伝子の故か?亡くなった父に連れられて通った海に回帰した故か?はたまた、大都会から離れた地での人々との新しい出会いの故か?

   いずれにせよ、その結果、筆者の健康は見る間に回復し、母のためにも、己のためにも、また新しい人たちとの出会いを大切に生きて行こう、という発想からか、再び、それまで暫く無かった意欲が湧いて来た。

   それは、詰まるところ、適切な気分転換が出来たためか、新鮮で、美味い魚(魚に関する目利き、捌き方、調理方法の知識や経験について、筆者は漁村出身の田舎人そのものである。)を食べられるようになったためか、母のために確り生き続けようという務めに気付い故か、それともパートナーとして筆者の活動を支えてくれることとなった人との巡り合いを大切にして行こうという決心のためか、それが何に因(よ)るかは、俄には即断出来ない。

   しかし、結局、その後、丁度ミレニアムの頃には、東京を完全に引き払い、この白浜事務所からJRの特急でも、高速道路経由の自動車でも略1時間前後の、W県の県庁所在地W市の西南方向に位置する、万葉集にも登場する名勝の海岸に新居を建設し、母も家人もここで一緒に暮らすこととなった。

   この地では、景観保持の市民運動や、人権や平和のための市民活動などを続ける一方、生涯学習のパソコン教室で講師を勤めながら、暮らし続けて15、6年ほどになる。

   しかし、筆者の人生から言えば、生まれ育った東京での暮らしは65年を超えているので、こんなに経った今でも、未だに、出歩いたり、交通機関を利用したりする際、一番落ち着いて居られるのは、正直に言って、今住んでいる当地では無く、東京であることは間違い無い。それが、自分でも不思議でならない。

   良くも悪くも、筆者は「田舎の中の都会人、都会の中の田舎人」であることを自覚している。

   考え方によっては、「いつまで経っても(地に足を付けた)土着の人間には成り切れない者」あるいは「都会の幻影から離れられず、虚飾に満ちた世界に溺れた者」と哀れまれたりするのかも知れない。

   だが、負け惜しみでは無く、筆者は「都会」と「田舎」について、体験した知識を有するが故に、双方の長所、短所を感じ取ることの出来る、恵まれた人間である、と密かに自負している。

   言わせて貰えば、結局「違いの分かる男」と言いたいわけだ。「都会」にも「田舎」にもそれぞれ代えがたい良さがある。それらを理解した上で、愉しむことが出来るのは、本当にしあわせだし、一方で、「都会の問題点」や「田舎の嫌らしさ」も感じ取れ、また、それらについて、どっぷりその地のぬるま湯に浸かった者では無い立場で、遠慮無く発言出来るというのも、ストレスフリーな、気楽で、時に強靱な生き方だ、と言えるのかも知れない。

   「田舎で生きる」のも「都会で暮らす」のも、結構面白くて、楽しいものだ。生きづらい世の中だって、そう捨てたものでは無い。そこにも、きっと何かがある。

   要は、うわべに惑わされるのでは無く、自ら本当のところを感じ取り、それを率直に受け取り、時に冷静に受け入れて、「人生を生きる」ことこそ、人生の達人を究める道に通ずるのかも知れない。

buraijoh.jpg

筆者:ぶらいおん(詩人、フリーライター)

東京で生まれ育ち、青壮年を通じて暮らし、前期高齢者になってから、父方ルーツ、万葉集ゆかりの当地へ居を移し、地域社会で細(ささ)やかに活動しながら、105歳(2016年)で天寿を全うした母の老々介護を続けた。今は自身も、日々西方浄土を臨みつつ暮らす後期高齢者。https://twitter.com/buraijoh
PAGETOP