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83歳筆者が考える「応援上映」...リアルとバーチャルが混淆する、現代ならではの流行か

ぶらいおん

ぶらいおん

2016.09.20 11:00
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鞍馬天狗や西部劇に歓声を上げた、かつての子どもたちを思い出す一方...

   最近、映画館などで、上映中に観客が自由に声を上げていい、むしろ声を上げて劇中の人物を応援する、あるいは「コール」を行う、応援上映や発声可能上映などが流行っているそうだ。多くはアニメ映画や特撮映画などで、何度も観て内容を知っているリピーターが、わいわい参加して楽しむ、というようなものらしい。

   このテーマに関連して、「キンプリの応援上映... 客が「関わる」消費が人気(日経BPヒット総合研究所 品田英雄)」という記事の一部には、こうある。

『(前略)観客は女性が約8割で、20代が多いように見える。ほとんどの人がペンライトを持ち、中には登場するキャラクターのコスプレ姿のグループもいる。(中略)
   上映開始とともに映像に合わせてペンライトを振ったり声援を送る。登場人物の顔が近づくと「キス、キス、キス」と声を合わせてスクリーンに向かって叫びもする。また「嫌いな食べ物はなんだい?」という劇中の台詞に対して、観客それぞれが「ピーマン」「トマト」など自分の嫌いな食べ物を叫ぶこともある。さらに、登場キャラクターの代わりにセリフを言うシーンが用意されていて、字幕を観客が読む「生アフレコ」の場面まである。とにかく、休む暇もなく次々とやらなければいけないことが続く。
   最後は「アンコール、アンコール」という声があふれる中で場内照明がつき、上映は終了した。アイドルのコンサートと参加型の演劇が一緒になったような時間だった。』

   正直なところ、筆者ぶらいおんも、これは実際に体験したことが無い。それで、キンプリの公式サイトを検索してみると、宣伝を兼ねた、上映中の劇場内の様子を紹介した短い動画を見つけた。これで、大凡の雰囲気は掴める。

   要は、元々参加型である音楽のライブ演奏や演劇という対象物を映画というアニメ映像に置き換えたものと言えるだろう。まあ、色々揚げ足を取ることも出来ようが、それは後回しにして、先ず、本質的なポイントについて、コメントして置こう。

   先ず、はっきり理解して置かねばならないことは、「応援上映」は単なる一方向コミュニケーションであって、従来の参加型音楽、演劇ライブの双方向コミュニケーションや最近のテレビ番組で取り上げられている双方向(スタジオのコメンテータと家庭内の視聴者との)コミュニケーションとは全く「似て非なるもの」であることだ。

   結局、「応援上映」にはコミュニケートするべき相手が存在するようで、実際には最初から存在してはいない。言ってみれば、単なる独り相撲あるいは独演会に過ぎない。これには、反論の余地は無いだろう。つまり、生身の観客が応対しているつもりのスクリーン上の相手は、単に発光ランプによって写し出された光と影(映像)でしかない。
   その最も分かりやすい証拠は、幾ら盛り上がって最後に「アンコール、アンコール」と叫ぼうが、拍手しようが、現実には映写技師が再上映の処置を執らない限り、"映像自体の意思によるアンコール"などあり得ない。参加型演劇や音楽のライブ演奏とは決定的に異質なものである。

   そういう本質的な違いを理解した上で考えてみると、「応援上映」が流行るのは、矢張りそこには時代の反映がみられるように思える。

   何と言っても、アニメブーム時代、それと身の回りにスマホやタブレット端末、モバイルパソコンが氾濫して、それらを気軽に利用して楽しむロールプレイング・ゲームの普及なども大いに影響しているのだろう。
   つまり、今大流行の"ポケモンGO"もそうであるが、要は実像とバーチャルなイメージとの混在が一般にも浸透し、その境目が徐々に曖昧になって、半ばそれが当たり前の社会現象となって来たことを表しているのかも知れない。

   それともう一つは、「独創性の欠如」あるいは「独自性(あるいは個性)の発揮を求めようとする意欲の喪失」が顕著になって来ているのかも知れない。つまり、未知のものに触れるワクワクした期待感や、それに伴う困難を解決するための、(或る意味での心地よい)緊張感よりも、決まり切ったシナリオに従って、同類の仲間と連帯できたような錯覚あるいは誤解(?)の中に浸り切って居る方が安心出来て、安泰と感ずるのかも知れない。

   ぶらいおんのような超高齢者による、揶揄を交えた傍目八目的な視点からすると、この「応援上映」や「発声可能上映」の有様は昔々、筆者が若く生意気盛りだった頃、都会のちょっと洒落た映画館で名画などを鑑賞している折に、後ろに座った、何処かの田舎から孝行息子に連れられ、初めて上京して来たような、素朴なお年寄りが映画館のシートの上に和服で正座して、映画を観ている内につい引き込まれ、場所柄も弁えず、スクリーンの中の俳優達に反応してすすり泣いたりするだけで無く、一々、映像である登場人物達に直接相づちを打ったり、思わず声を掛けたりする様子とそっくりだ。無論、生意気な若僧であった筆者は「この田舎の年寄りめ!耄碌すると現実とイメージの世界の区別もつかぬのか!少しは静かにしてくれ!」と心の中で悪態をついたりしたことを恥ずかしく思い出すが、今、流行の「応援上映」に入れあげるギャルの元祖は案外、この辺りなのかな?と感じたりする。

   あるいは、こんなシーンも思い出した。いわゆる活劇映画と呼ばれる、時代劇で、たとえば悪党の新撰組に捕らえられた角兵衛獅子の杉作を間一髪の所で助けるために馬で疾駆する嵐寛(あらかん=(注)嵐寛寿郎という俳優の親しみを込めた略称)扮する鞍馬天狗がスクリーン上に覆面姿で現れたとき、または凶悪なインディアンの種族に捕らえられた幌馬車隊が将にあわやという瞬間に、騎兵隊のラッパが高鳴り、長身のジョンウェイン扮する騎馬隊長がピストルを振り上げながら登場すると、映画館の中(この場合は専ら、男のガキ共)から拍手と歓声が湧き上がる。こういった場面では、ませた子どもの、ぶらいおんは気恥ずかしさで一杯となり、「何故、こいつらは現実を忘れて、恥ずかしげも無く映画という虚像に惑わされ、溺れ切れるのか?少しは冷静さをもって見ろ!」と心の中で毒づいたりしたものだ。だから、もし筆者が「応援上映」に参加したら、今でも丁度同じように感じ、同じような悪態をつくかも知れない。

   つまり、筆者の中では芝居や音楽ライブ演奏なら、むしろ当然である演技者乃至演奏者と観客との双方向のコラボが作り上げる独自の空間こそ、その時、その同じ一堂に会した発信者と受け手とが創出する、他のものには代え難い、新たな創造の成果である、と考えるのだが、それに対し「応援上映」の方は一方が生身の人間であっても、もう一方は単なるバーチャルなイメージ、つまり虚像でしか無く、結局、そこでは独り善がりな一方向コミュニケーションしか成立し得ない、という風に考える。

   ただ、筆者が決して納得しているわけでは無いが、もしかしたら「応援上映」を歓迎する向きは映画館では「携帯の電源を切る。前の席を蹴らない。上映中はお喋りしない。」という、これまでだったらごく当たり前の映画鑑賞マナーを決定的に変革するための新しい手法を求めているのかも知れない。もし、そうだとしても、今の態様では、その道は遙か遠い、と言わざるを得ない。しかし、これを突き破るような映像、上映方法、そして鑑賞方法が生まれたりすれば、それはそれでまた面白い展開が見られるかも知れない。

   ここで、ちょっと話が転ずるのだが、誤解の無いように読んで頂きたい。

   それは、先頃亡くなった冨田勲氏の『イーハトーヴ交響曲』の中でソリストとして起用されたVOCALOIDの初音ミクのことである。筆者の評価は、これは実に素晴らしい作品で感動させられた。それこそ、初音ミクの登場が大成功であった、と感じる。これが生身の人間で無かったことが、この場合はよかった。つまり、作品の内容、雰囲気、表現方法などにとって、初音ミクは将にピッタリだった、と考える。しかし、それは飽くまで生身の人間の代用というわけでは無く、バーチャルなイメージ素材そのもの、という認識に基づいて、取り上げられていることが逆に効果的であった、と評価したい。

   筆者の考えでは、これは「応援上映」のバーチャルイメージに似て非なるものと判断する。「応援上映」の方の作品全体それ自体がアニメのバーチャルイメージから構成されているのに対し、『イーハトーヴ交響曲』の方は、ごく普通の音楽作品の1つに分類される交響曲の中で、たまたま生身の人間のヴォーカルよりも初音ミクの起用が適切である、という作曲家の判断から生まれ、それが成功したケースだ、と考える。

   述べて来たように、現代がイメージに関し、「リアルとバーチャル」が混在し、しかもその境目すら徐々に曖昧になって行きつつある社会である、ということは否定できまい。
   しかし、無意識にその風潮に流されることは決して望ましいこととは言えず、むしろ大きな危険を孕んでいる、と筆者は考えている。
   よくニュースなどでも報じられているように、世界的な紛争の中で無人機や無人の武器が次々と開発され、戦場には居ない操縦者が後方の施設内で、それこそゲーム感覚のように操作レバーを握って、殺人兵器を操り、生身の人間を次々と殺戮してゆく様を見せられると、慄然とせざるを得ない。

   「応援上映」がその下地を作っている、と短絡的に結びつける気も無いが、世の中に溢れるバーチャルなロールプレイングゲームが、現実の殺人や子どもや女性の誘拐を誘発しているという見方もある。また、一方でバーチャルな世界でこそ、リアルな世界で本来あってはならぬ悪魔的ストレスを逆に消失させる効果がある、という考え方もあるのかも知れないし、また日常では体験できない役割をバーチャルなゲーム内で果たすことにも、何らかの意味があり、何かに役立ちそうな、全く新しい感覚を得たりするのかも知れない。この辺りは、筆者の孫たちの強力な推奨を容れ、規定方針を変え、もっとゲームに触れるような余地について、考えてみる必要があるのかも知れない。

   ただ筆者としては、今のところ前説を採りたいところなのだが、良く考えてみれば、結局はバーチャルやリアル世界に関わる当人の資質や、対象を正しく認識し得る能力如何に、むしろ、これらに関する本質的な問題があるように思える。
   いずれにせよ、この種の問題には、少なからぬ関心があるので、また適当な機会があれば、考えてみたい。

   また、軽々には言えぬだろうが、「応援上映」や「バーチャル・ロールプレイングゲーム」に若い人達が現を抜かしていると主張して「1億総平和呆け」とばかりに、逆に、これをよいチャンスと捉え、「悪意を持った危険極まりない外国勢力が我が国を虎視眈々と狙っている」と煽り立てるような、それこそ悪意を持った扇動家が現れ、ここぞとばかりに再び愚かで、過酷な結果しかもたらさない方向へ一般大衆を誘導しはすまいか?とつい、想像してしまうのであるが、矢張り、これは年寄りの、余計な取り越し苦労というものだろうか?

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筆者:ぶらいおん(詩人、フリーライター)

東京で生まれ育ち、青壮年を通じて暮らし、前期高齢者になって、父方ルーツ、万葉集ゆかりの当地へ居を移し、今は地域社会で細(ささ)やかに活動しながら、西方浄土に日々臨む後期高齢者、現在100歳を超える母を介護中。https://twitter.com/buraijoh