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大河ドラマ「真田丸」で町おこしを狙う沼田市が、全力で「真田推し」に踏み切れない理由

Jタウンネット編集部

Jタウンネット編集部

2015.09.28 06:00
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2016年の大河ドラマ「真田丸」は、初代薩摩藩主・島津忠恒が「日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由」と絶賛した真田幸村(信繁)が主人公だ。

父・昌幸が本拠地として築き、幸村も居住した上田城は、「真田ゆかりの地」として全国から注目され、連日大勢の観光客が押し寄せる。上田市も特設ウェブサイトを開設したり、「(仮称)信州上田真田丸大河ドラマ館」の開設準備を進めたりとPRに励んでいる。

幸村人気にあやかろうとしているのは上田市だけではない。同じく戦国~江戸初期に真田家の領土であった群馬県沼田市は「もうひとつの真田の舞台」をキャッチフレーズに、観光客を呼び寄せようとしている。

ウェブサイト「もうひとつの真田の舞台」のトップページ
ウェブサイト「もうひとつの真田の舞台」のトップページ

幸村の末裔が過ごした宮城県蔵王町が「蔵王町は、真田幸村公ゆかりの郷です」と堂々アピールしているのと比べると(参照:何の関係が...? 宮城・蔵王町が「真田幸村ゆかりの郷」で町おこしする理由)、正直言って控えめだ。コンテンツの中身もまだまだこれからといったところ。

実は沼田で真田家はあまりよく思われていない。というのも、江戸時代の藩主が領民を慈しむどころか、真逆の圧政を展開したからだ。

悪政すぎて幕府に潰された沼田藩

沼田は1580年に昌幸が攻略した。短い空白期間はあるものの、1590年から幸村の兄・信幸(後に信之と改名)とその妻・小松姫が治めた。
1600年の関ヶ原の戦い後、信之は上田城に戻るも、江戸時代初期に真田の分家が沼田藩として独立する。表高は3万石しかなかったのに、本家に対するライバル心が仇となり、その約4.5倍の石高を幕府に申請した。

税が激増した領民は大いに苦しむ。名主や農民が幕府に直訴し、藩主の不手際も重なって、1681年に改易の処分が下る。五層の天守があった城は破却され、遺構は石垣を一部残すのみとなっている。

直訴人の1人、杉木茂左衛門は禁を犯したとして磔(はりつけ)の刑に処せられた。しかし地元の人たちは「茂左衛門様」と呼び、処刑場跡や茂左衛門地蔵尊(群馬県みなかみ町)のお参りを欠かさない。そして上毛かるたは「天下の義人 茂左衛門」と読み継ぎ、その勇気を後世に伝えている。
一方、上毛かるたは真田家について全く触れていない。

9月23日は地蔵尊の秋の法要で、大勢の家族連れでにぎわった。

ちなみに上記の投稿をしているのは、沼田周辺の町おこしを目指す「小松姫プロジェクト」のツイッターだ。上記の関係を見ると、なんか皮肉な感じがある。

沼田市役所は8月31日、オリジナルの「真田ロゴマーク」を発表した。説明文によると、沼田の象徴「たんばらのブナの葉」と、沼田の礎を築いた真田氏の「六文銭」を掛け合せたデザインだという。

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良い出来事も悪い出来事もすべて歴史の1ページとして記憶にとどめつつ、未来に向けて歩んでいこうという、沼田市民の前向きな決意が込められていると見るのはうがちすぎだろうか――。

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