3.11で「家」失った博物館長が、能登半島地震被災者に提案 「目を閉じれば見えるもの」は今のうちに書き残して
東日本大震災で我われが経験した「瓦礫処理or文化財レスキュー」という二択ではなく、「被災物」という第三の選択肢があることを、しっかりとお伝えしなければならない時だと思っています
2024年1月18日、東日本大震災の被害を記録し、展示しているリアス・アーク美術館(宮城県気仙沼市)の館長・山内宏泰(@riariariabi)さんはX上で能登半島地震に関するそんなメッセージを発信した。
その根本にあったのは、多くの人にとって価値があるわけではない「誰かにとってのかけがえのないもの」を、がれき撤去で"ゴミ"として捨てることへの憤りだった。
3月10日の記事【「がれき処理 or 文化財レスキュー」の二択でいいのか? 震災の記録を残し続ける博物館長が語る「被災物」の価値】で伝えた通り、「被災物」とは被災したモノのこと。たとえ壊れてしまっていたとしても、大切にしていたものを手元に置いておくことで、被災した人の心が守られ、被災地で育まれてきた暮らしを残すことができる。では、残しておきたいものが失われてしまった場合は、どうすればいいのか?
山内さんは1月23日、こんな提案も行っている。
能登半島地震で被災された多くの方々が、人生の大切な記憶を宿すモノ、コトを失っています。家、町、仕事、人間関係など。今は心に焼き付いている記憶も数年で薄れてしまいます。
忘れたくない大切な記憶、今のうちに書き残しておくことをお薦めします。モノを失うと、記憶が再生されなくなります
Jタウンネット記者は25日、山内さんに詳しい話を聞いた。
震災から2年経ち...
山内さんが「書き残すこと」の大切さを訴えるのは、自身も東日本大震災で「家」を失い、忘れてしまった記憶があるからだ。
山内さんの自宅があった鉄骨4階建てのビルは、津波で押し流された。巨大な給油タンクの直撃を受け、根こそぎもげていたのだという。
後に自宅があった場所に行くと、何もない状態だった。大きなショックを受けた。
「うちに動物がいたので、まずそれを助けられなかったということが一つ。
それから、何もかも全部なくなってしまったということ。
それはやっぱり覚悟はしてたけど現実にそれを目にしたときには、膝から崩れ落ちて号泣したんですよ。
これはもう抑えようがなかったですよね。身体が勝手に泣き始めるというか、人生で初めての経験でした。
頭は冷静なんですよ。ああ、人間って本当にこんなふうに泣くんだとか思ったりしながら、だけど耐えられないんですよね」
ビルは、3月末に発見された。本来の位置から200メートルほど離れた場所にまで移動していた。
そしてその流された家も、いつの間にか解体されていた。出張中に友人から「今、山内さんの家の残骸の前を通ったら重機が入ってた。どうも解体作業をしているみたいですよ」と連絡を受け、戻ってきたら、なくなっていたのだ。11年12月のことだった。
ただの更地だけがそこにあるのを見たときは非常に悲しく、「これですべてなくなったんだなという感じがしました」。
それでも、2年ほどはかつての自宅や近隣のことをよく覚えていたという。
「当時住んでた自宅に関しては、2年くらいは目をつぶってドローンを飛ばすみたいに、自宅の中を頭の中で歩くことができました。
なくなった自宅のどこに何があるのかも、その当時把握できてたものは2年ぐらい頭に入っていました。自分の家の間取りを書けと言われたら、頭にありました。
自分の家を中心に半径100メートルくらいだったら、ある程度地図みたいに書くこともできていたはずなんです。
でもすべて更地になったところにかさ上げがされて新しい道がつくられてしまうと、現場に行くとどこだか分かりません。
目を閉じて頭の中でイメージしようとしてもそれもだんだんできなくなっていくんです」
山内さんが震災で失った「家」とは、家屋のことではない。人、街、暮らしなど、家を取り巻く全てだ。失われたそれらは、どれだけ復興が進もうと、元に戻らない。家を作り直したからと言って、よみがえるわけではない。
だからこそ、「書く」ことが大切なのだという。
「すべて灰になってなくなってしまったって、今はみんな絶望してますけれど、目を閉じれば見えるでしょということなんです」
「それをちゃんと、いまのうちに記録を取っておく。それは時間が経つとできなくなっちゃうんで、それをやってほしいなと思います」(山内さん)
モノが失われてしまったとしても、記憶を残そうとする試みは、今ならまだ間に合う。
忘れたくない思い出を書いておくこと、壊れてしまってもかけがえのないモノを手元に残しておくこと。そうすることで、かつての日常を自分の内に留めておくことが出来るのだ。