まるでミイラ?東京・高輪の「ゆうれい地蔵」 なぜこんな姿になったのか、その歴史を追った
資料を調べ、住職に話をきいたが...
まずは一度その姿をみようと光福寺へ足を運んだ。2019年9月22日昼のことだ。
お墓参りをする人の中にポツリと、その地蔵は佇んでいた。
あたりを見渡しても、地蔵にまつわる記述があるわけではなかった。当然のことながら地蔵は何も語らない。ただ赤ちょうちんに、「子安栄地蔵尊」と書かれているだけであった。
はてどうしたものかと思い、光福寺から徒歩20分ほどの場所にある「港区立郷土歴史館」へ向かった。館内の一般開放された図書館で見つけたのは、「港区 文化財のしおり」(発行:港区教育委員会 2015年3月20日発行)。
そこには以下の記述があった。
「子安地蔵として信仰されている地蔵です。品川沖からあがったと言われるこの地蔵が、亡くなった母親の代わりに子どもを育てたとの伝承があります。 また、門前町の一軒の飴屋に、毎日、雨の日でも傘もささずに飴を買いに来る母子がおり、不思議に思った飴屋の主人と住職が後をつけると、この地蔵の前にたどり着き、その後、住職がこの地蔵を毎日きちんと供養するようになると、その母子は現れなくなったという昔話も残されています」
ようやくたどり着いた資料には、いつ作られたのかなど、詳細な記述があるわけではなかった。しかし伝承や昔話として受け継がれていることがわかった。
後日、光福寺に電話をかけると、住職が寺の歴史から語ってくれた。
現在の光福寺ができたのはおよそ1879年(明治12年)だという。源光(げんこう)寺と相福(そうふく)寺の2つを合併した。文献としての資料はないと話す。
「(合併した時から)すでに皆さんが俗称で呼んでおられたそうです。現在の『ゆうれい地蔵』がどちらのお寺に所属していたのかは、何の文献もないため、正直なところ存じ上げない」
続けて、
「おそらく古い地蔵さんを昔からあがめて、水などをかけておられたのが、だんだん摩耗して今のお姿になられたのだろうと想像している」
「本来は子供が丈夫に育つように『子安地蔵』と呼ばれている。『ゆうれい地蔵』というのは姿形から判断しての人々が付けた俗称なのではないかと私は考えている」
と述べた。とはいえあくまでも言い伝えの範疇だ。最後に住職は、
「みなさんがそういう風におっしゃっているのを(先代から)受け継いでいる」
と話した。
こんな摩訶不思議な地蔵が東京都にあったとは。知らないことはたくさんあるものだ。まだまだその歴史がわからぬ代物がゴロゴロありそうだ。