「看板建築」って知ってる? 江戸東京たてもの園で勉強してきた
「看板建築」のきっかけは関東大震災だった
東京の歴史的建造物を移築した「江戸東京たてもの園」では、2018年7月8日まで、「看板建築展」が開催されている(月曜日は休園)。
「看板建築」とは、平らな壁面に銅板やタイルが貼られた木造の商店建築のこと。横から見ると、建物正面がほぼまっすぐなのが特徴で、現在も神田神保町などに多く残っている。そのため当初は「例の神田のやつ」などと呼ばれていたというが、1970年代に建築史家の堀勇良さんらによって「看板建築」の名がつけられた。
「看板建築」の始まりは、1923年(大正12年)の関東大震災で多くの建物が倒壊したことだ。焼け野原となった街並みを復興させるため、バラックで仮設の商店を立てた。その際に民俗学研究者の今和次郎(こん・わじろう)氏がバラックを「美しくする仕事一切」を請け負う「バラック装飾社」を立ち上げ、バラックの装飾に尽力。これがのちの「看板建築」に大きな影響を及ぼした。
その後、本格的に町の復興がスタート。当時は3階建ての建物を作ることが禁じられていたため、3階部分は当初「屋根裏部屋」の扱いだったという。その後の法改正で3階の建築が認められるようになり、冒頭に写真を載せた「三省堂」のように、窓のある3階がみられるようになった。
復興の際には鉄筋コンクリートを用いた建物も多く建てられ、木造でも伝統的に「出桁造り(だしげたづくり)」という手法が用いられることが多かった中、木造の建物の表面に銅板やタイルを張り、建築家が意匠を凝らした「看板建築」が作られ始めたという。
そんな「看板建築」には、5つの特徴がある。
1)間口が狭く、奥行きがある建物が多い
2)木造建築で、建物の正面部分(ファザード)が平坦
3)建物の正面部分は銅板やタイルを張ったり、モルタルで仕上げる
4)屋根には「腰折れ屋根(マンサード屋根・ギャンブレル屋根)」を用いることが多い
5)建物表面の装飾が豊かで銅板張りの質が精緻
1)は、「建物建築展」にあった模型を見てみるとよく分かる。細長い形状の家ながら建物の表面に装飾が施されている。2)は先にみた通りで、狭いながらも少しでもスペースを有効に用いるかを考えたものだ。
4)の「腰折れ屋根」とは、下の赤い丸の屋根の部分のこと。二段階に曲がっていることがわかる。
ほか、5)についても、以下の写真を見てみると、非常に細かいところながら、花や枝を模した微細な柄が描かれていることが分かる。
こうした「看板建築」の建物は、昭和に入ってからもしばらく存在していたものの、バブル時代の再開発などで建て替えが行われたという。残っているのは「江戸東京たてもの園」の調査では以下の通り。黄色の場所が残っている場所、緑の部分は園に移設されたもの、白はすでに存在しない場所だ。
現在、埼玉県の川越市や茨城県の石岡市、静岡県の三島市などに「看板建築」は残存している。東京都でも、青梅駅周辺の青梅街道付近の街並みや、中央区日本橋などにもあり、さらには編集部からも近い千代田区神田神保町にもあるそうだ。
「これは見に行くしかない」
そう直感した筆者は、カメラを持って電車へと乗り込んだのであった――。(つづく)