2018年は明治150周年...いや、戊辰150周年 会津若松市の「戊辰」へのこだわり
明治元年は1868年とされており、2018年はそれから150年ということもあり、各地で「明治150年(明治維新150年)」と銘打ったイベントや記念事業が行われている。
だが、明治という表現を使わない自治体もいくつか存在する。新政府側から「朝敵」「賊軍」とされ、旧幕府側として戊辰(ぼしん)戦争を戦った東北各地の自治体だ。かつての会津藩、会津若松市は「戊辰150周年記念事業」とし、関連するイベントはもちろん公式サイトの記述もすべて「戊辰150周年」となっていた。
二本松市や白河市も「戊辰」
会津若松市の「戊辰」にかける思いの強さは、戊辰150周年記念事業公式サイトの文言からもうかがえる。
例えば戊辰戦争の紹介では「義に死すとも不義に生きず」との見出しに、
「会津藩は朝廷に刃向う『賊軍』とされ、会津戦争に突入しました。会津藩にとっての戊辰戦争は、『信義』の精神から始まり、『正義』を貫くための戦いだったのです」
とされ、徳川家に忠誠を尽くすという立場から新政府と戦うことになった会津藩の姿勢を解説。「鶴ヶ城開城」の項目では、降伏式の際に敷かれたという真っ赤な毛氈(もうせん、敷物)の写真が掲載されており、
「会津藩士はこれを『流血氈』と呼んで、その悔しさを忘れないように誓い合った」
と説明。「戊辰」への強いこだわりを感じさせる内容となっている。実際のところ、会津若松市としてどのような思いで今回の記念事業を企画したのだろうか。Jタウンネットは事務局のある同市役所観光課に取材をしたところ、次のように答えてくれた。
「会津若松市は会津の武家文化、侍文化を観光の中心としてきました。こうしたこれまでの取り組みを踏まえると、記念事業として(武士以降の)『明治維新』という言葉は選択肢になく、必然的に『戊辰』になりました」
もちろん、記念事業は市だけでなく商工会議所や各事業の組合・協会も参加しており、地元の人たちの思いもある程度は加味しているという。
「かつての藩士の子孫の方やなどもおられますので、『戊辰』という言葉に思い入れがある方も少なくありません。市全体で取り組んでいる事業ですので、そうした方々の思いも汲み取る必要はあるかと考えています」
ツイッター上でも、会津若松市民と思われるユーザーなどから、「戊辰」へのこだわりを感じさせる投稿が見られる。また、異なる視点から歴史を振り返るきっかけになるという声も見られ、戦史研究家の山崎雅弘さんも、明治観を捉え直すいい機会ではないかと指摘していた。
なんとなく「明治維新150年」という言葉を使ってしまうが、福島など「賊軍呼ばわり」された側では「戊辰150年」と呼んでいる模様。150年という節目は、日本人がなんとなく「そういうもの」だと信じ込んできた薩長視点の明治観を、ひとつずつ点検していく良い機会だろう。多面的にあの時代を捉え直す。 pic.twitter.com/HC8dBLSNEV
— 山崎 雅弘 (@mas__yamazaki) 2018年1月30日
戊辰150周年に関する記念事業は会津若松市だけでなく、福島県内では二本松市(かつての二本松藩)や白河市(かつての白河藩)も取り組んでおり、二本松市の「戊辰の役150年事業」ではロゴマークに「二本松少年隊」の隊士の姿が用いられている。
また、戊辰戦争といえば仙台藩や米沢藩などが加わった奥羽越列藩同盟や、会津藩と同盟を結んでいた庄内藩など、東北の他の自治体も関係してくるが、具体的に会津若松市がこれらの地域と連携してイベントや事業に取り組む予定はないという。
東北ではないが、すこし変わったところで岐阜県郡上市にある「郡上八幡城」では「凌霜(りょうそう)150」という表現を使用している。これは郡上市にあった郡上藩が新政府に恭順したものの、一部の藩士が脱藩し幕府側に参加するために結成した「凌霜隊」に由来しているようだ。
明治、戊辰、言い方は異なるが歴史の大きな節目となった時だったことは確かだ。これをきっかけに、150年前の地元の歴史を辿ってみても面白いかもしれない。