「1日1日反省しています...」川崎中1事件から301日、現場に残された「赤い手紙」【現場2015】
少年の遺体は全裸で発見され、首や顔に多数の切り傷、現場付近には血の付いたカッターナイフと結束バンドが見つかった――。
2015年2月に川崎市の多摩川河川敷で中学1年の男子生徒が殺害された事件を受け、警察の捜査関係者は「人間がやることではない」と漏らしたという。その凄惨な殺害方法から諸方面で大きな反響を呼び、犯行現場となった河川敷には少年の死を悼む人々が全国から訪れた。
山積みになった献花や供物、涙を流す弔問客の姿――。テレビのワイドショーや新聞記事などで盛んに取り上げられたその風景を、今も覚えている人も多いのではないか。
事件から10か月。記者は改めて現場を歩いた。
事件から10か月、いまの現場は...
記者が現場へ向かったのは15年12月18日、事件から301日後のことだ。凄惨な事件の現場となった河川敷の一角は、京急大師線港町駅から歩いて5分ほどの場所にある。駅前には数棟のタワーマンションが立ち並び、閑静な住宅街といった雰囲気だ。
事件直後は弔問客やマスコミが大挙していた駅前周辺も、平日の昼下がりということもあり人通りはほとんどない。新たなマンションを建設中らしく、辺りには工事現場の機械音だけが響いていた。
多摩川土手へ出て、川沿いを東へ3分ほど進むと問題の現場が見えてくる。国の有形文化財にも登録される川崎河口水門のすぐ近く、某企業の管理地になっている草むらで、当時13歳の少年は惨殺されたのだ。
事件直後とは、大きく様変わりした風景
「随分、すっきりとしたな......」。現場に辿り着いた記者は、率直にそう感じた。当時、花束が山積みにされ、ボランティアが設置した地蔵など、多種多様な供物が置かれていた遺体の発見場所。そこは、茫々と生い茂った雑草に覆われている。
事件発生から約1週間後、大量の献花やバスケットボール(被害者の少年はバスケットボール部に所属していた)が供えられていたときの風景と見比べると、一目には同じ場所とは思えないほどだ。
しかし、弔問客が全くやって来なくなったわけではない。実際、記者が現場に滞在していた1時間ほどの間にも、3組ほどの弔問客が訪れ、沈痛な面持ちで少年の死を悼んでいた。
献花が消えた理由は、「お知らせ」と記された立て看板にあった。そこには、「川崎市として6月30日午前10時を目処に、現場周辺の献花、供物等の一切を整理させていただくことにしました」といった文章が。加えて、7月以降は献花等の供物を控えてほしいとのお願いも記されていた。4月に供物が原因で火災が発生したことや、遺族からの意向がその理由だという。
ただ、こうした看板があるにも関わらず、河川敷の一角には供物とみられるものがいくつか。いずれも、遺体の発見現場から20メートルほど離れた場所に作られた、被害者の少年の名前を冠した花壇周辺にあった。
現場周辺で見つけた「メッセージ」
冬場ということで花壇には何も植えられていなかったが、その代わり1つの供物がぽつんと置かれていた。
このビニール袋のなかには、数十枚ほどの手紙が入っているのが透けて見える。近づいてみると、字の形から小学校低学年ほどの児童が書いたものとうかがえる。手紙のほか、一冊の文庫本が入っていたことが目視で確認できた。どこかの小学校教師が、道徳の授業などで事件を取り扱い、生徒が被害者少年へのメッセージをつづったのだろうか。
もう1つ、花壇の近くに立っていた看板の支柱にも、メッセージの書かれた赤い布が。触らぬようにそこに書かれたメッセージを見てみると、「1日1日反省しています」「人生が変わった」「自分のことだけじゃなく、人のため仲間のために......」といった言葉が、被害者少年の名前とともに綴られていた。
過ちを犯した少年本人、もしくはそれに近しい人物が綴ったような、そんな文章といった印象を受けた。
「月命日が近くなると、この場所を訪れるんです」
「月命日の20日が近くなると、この場所を訪れるんです」――。こう語ったのは、花壇周辺を歩いていた40代の男性だ。聞くと、事件の起きた2月から毎月欠かさずこの場所を訪れ、少年の冥福を祈っているという。今回は妻と娘、まだ赤ん坊の孫を連れてやってきたのだそうだ。
「すっかり、この場所も様変わりしましたね。事件直後は、日本全国から大量の献花が届き、お坊さんが経を読みにいらっしゃることもありました。テレビや新聞などのマスコミも沢山いましたし......。とはいっても、ボランティアの方が手弁当でこの場所を管理して下さっていたので、『いつまでも』というわけにはいかないのでしょうが」
しかし、上のように語った直後、男性は遺体が発見された現場へ顔を向け、以下のように言い添えた。
「ただ、あの痛ましい事件がこのまま忘れられてしまうのは、寂しいものですね――」