「がれき処理 or 文化財レスキュー」の二択でいいのか? 震災の記録を残し続ける博物館長が語る「被災物」の価値
多くの被害をもたらした2024年1月1日の能登半島地震から2か月。
石川県では、がれきの撤去と合わせて、美術工芸品や古文書などを救出する「文化財レスキュー事業」が行われている。
しかし、被災したモノは、「がれき」か「文化財」のどちらかなのだろうか。ゴミとして捨てられるか、貴重な品として保護されるかの、どちらしかないのだろうか。
いや、そうではない。東日本大震災の被害を記録し、展示しているリアス・アーク美術館(宮城県気仙沼市)の館長・山内宏泰(@riariariabi)さんは1月18日、X上で「第三の選択肢」について言及した。
《東日本大震災で我われが経験した「瓦礫処理or文化財レスキュー」という二択ではなく、「被災物」という第三の選択肢があることを、しっかりとお伝えしなければならない時だと思っています。》
例えボロボロでも、自分にとってかけがえのない物ならば「被災物=記憶の拠り所」として残しましょう。
自分にとってかけがえのないものを「被災物」として残すとは、どういうことか。
Jタウンネット記者が25日、山内さんを取材した。
壊れて使えない「被災物」でも...
山内さんによると、「被災物」とは文字通り、「被災したモノ」のことだ。その中には、誰かが人生をかけて大切にしてきたモノもある。
例えば、色んな思いを込めて奏でた楽器。例えば、一緒に旅をした車やバイク。例えば、美しい景色を共に見てきたカメラ。たとえ壊れて、使えなくなっていたとしても、持ち主にとってはかけがえのない、意味のある存在だ。
しかし、他の人にとってはそうではなく、文化財のような価値はない。がれき撤去の際には、まとめてゴミとして捨てられてしまう。そんな現実に、山内さんは疑問を感じている。
「文化財とゴミという分け方はあんまりじゃないか、ということです」(山内さん)
それは山内さん自身の体験から生まれた思いだった。
2011年3月、山内さんの住んでいた家は、東日本大震災の津波で押し流された。鉄骨4階建てのビルで、発見されたのは本来の位置から200メートル離れた場所だった。
「心の中に埋めようのない穴が開いてしまう」
押し流された家の中にはもちろん、大切なものが沢山あった。「意味のないもの、つまらないものなんかないんです」と山内さんは語る。
「本当のことをいえば、一個一個モノを確認して、これも壊れたか、仕方ないな、処分するしかないなと一個一個確認したかったくらいです。
だけどそんなことは誰にもできなかったわけです」
がれきの撤去作業を行うために、被災物に向き合う時間を十分に取ることは、叶わなかったのだ。最終的に集積所に集められ、10メートルもの高さに達した被災物の山を見ると、悲しみに襲われたという。
「自分のいとおしいものの亡骸が野積みにされているような感じでした」
山内さんが持って帰ってくることができたのは、いくつかのものだけ。一つ一つを確認できなかったから、数年後にあると思っていたものがないことに気付いたり、失くしていたことすら忘れていたことに愕然としたり......。そんなことが、数年の間に繰り返しあった。
「他人からみてどんなつまらないものであっても、その人たちにとって大事なものは変わらずあるはず。
そういうものを残していかないと心の中に埋めようのない穴が開いてしまうんです」
それに、残しておくことで他者との対話のきっかけにもなる。
例えば、中学校の野球部の帽子。被災物として残しておく理由を話すと、「それ俺もおんなじような思い出がある」という人が出てくる。被災地以外の場所で野球をやっている人たちが、共感を持つ。被災していない人たちにも、気持ちが伝わっていく。
「ああそうか自分たちの毎日の思い出が詰まったものを失ったんだな、被災するってそういう大事なものを失うということなんだなと分かるわけですよ。 そういうことのためにも残しておくといいんです」
歴史的に価値のある文化財を残すことにも、もちろん意味はある。しかし、それらから被災した人たちが、その地で育んできた暮らしは見えてこない。もっと前の時代のものだったり、お祭りのような特定の場面でしか使わないものだったりするからだ。
被災した地域の日常はむしろ、被災物から見えてくる。
「そこにどんな町があってどんな人の暮らしがあったのかということを残していきたいのであれば、文化財以外のものをなんでもかんでもゴミだよと捨ててしまってはダメだよということです」
山内さんは言う。「特定の人にとって意味のあるものを蓄積し、人はそこに社会を作っている」。
個人の心を守り、共感を生み、そして、かつてその場所にあった「日常」を記録する。
ゴミでも、文化財でもない、第三の選択肢。「被災物」にはそんな大きな役割があるのだ。