「ラピュタ」はここにあったのか! 佐渡島にある「北沢浮遊選鉱場跡」の雰囲気が最高すぎる
金生産「東洋一」を謳われたことも...
Jタウンネット記者の取材に応じたのは、佐渡市世界遺産推進課の担当者だった。
「佐渡では、江戸時代から平成までの間に、78トンの金と、2330トンの銀が産出されております。北沢浮遊選鉱場のある北沢地区は、明治から昭和にかけて整備された鉱山施設群です。月間約5万トンの鉱石を処理していたそうです」(佐渡市世界遺産推進課担当者)
佐渡市の資料をもとに、この北沢地区の歴史を振り返ってみると......、1869年(明治2年)、官営佐渡鉱山として鉱山の近代化が進められ、竪坑の建設、選鉱場の新設、北沢製錬所の拡張、大間港の築港など選鉱・製錬工程の拠点的地区となった。
そして、1938年(昭和13年)、北沢浮遊選鉱場が操業開始。当時最先端の技術であった浮遊選鉱法を導入し、金銀を回収したあとのしぼりかすなどを浮遊剤と混ぜ合わせ、泡といっしょに浮き上がった細かい金銀まで回収していた。一時は、年間1537キロの金を生産し、「東洋一」と謳われたこともあるそうだ。
もちろん背景には、戦費を捻出するため、国策による金増産計画があったと推測される。しかし戦争が激化すると、金銀よりも、軍事物資として直接必要な銅や亜鉛・鉛などを優先して生産することになったという。
戦後、佐渡鉱山は再び金銀の生産を始めるが、しだいに質の良い鉱石は少なくなり、生産は縮小され、北沢浮遊選鉱場は1952年に閉鎖。鉱山自体も1989年、休山となった。
北沢地区には他に、明治後期に建設された「北沢火力発電所」や、斜車道ともよばれる貨物用ケーブルカーの一種「インクライン跡」、北沢青化・浮選鉱所などもあり、数々の近代産業遺産が残されている。「採鉱→選鉱→製錬→積出し」までに至る鉱山の操業システムを示す一連の遺跡が残されている場所は、全国的に見ても貴重とされている。
また、現在、北沢地区は夜間ライトアップされており、多くの観光客の皆様が訪れる観光地として、再び脚光を浴びているようだ。
ツイッターで話題となっていることについて、佐渡市世界遺産推進課担当者に感想を聞くと、「世界遺産登録を目指しているなか、話題となっていることは大変うれしく、佐渡金銀山遺跡を知っていただくいい機会です」とコメントした。
コロナ収束後に行きたい場所が、また一つできたかもしれない。