長野県民がイメージする「長野」の範囲は、他県民とは全然違うらしい
突然だが、みなさんは「長野」と聞いてどこを思い浮かべるだろうか。きっと多くの人が「長野県」を想像するだろう。
しかし長野県民が想像する「長野」は少し違っているとのこと。こちらの画像を見てほしい。
ツイッターユーザーのおいでよ塩尻(@OIDEshiojiri)さんが2020年2月2日に投稿した画像によれば、向かって左側は「県民以外が想像する『長野』」、対して右側は「長野県民が想像する『長野』」を示している。
つまり長野県民の思う「長野」は長野県ではなく、長野市およびその周辺のこと。ツイッターではこの投稿に対し、
「長野県民ではありますが、長野には住んでいません。松本ですっ!(きっぱり)」
「だから『信州』って呼びがちww」
「この感覚わかります。横浜市民が想像する『横浜』は、横浜駅およびその周辺」
といったコメントが寄せられている。
お気づきの人もいると思うが、都道府県名と県庁所在地の都市名が一致する場合、似たようなケースは珍しくない。筆者の地元の富山県でも、県内で「富山」というと富山市が思い浮かぶ。
少し違うのは県民にとっての「長野」が、長野市に限らずその周辺も指していること。それには長野ならではの理由があるようだ。
「『長野市』が身近ではない」
Jタウンネットは2月5日、投稿者のおいでよ塩尻(@OIDEshiojiri)さんに詳しい話を聞いた。
おいでよ塩尻さんは長野県塩尻市在住。生まれは他県だが小中高と塩尻で過ごし、長野県に住んで10年以上経つという。
投稿のきっかけは、以前のツイートで塩尻市を「長野名物『山賊焼』発祥の地」と紹介したところ、「長野名物」という表現に県民と思われるユーザーから疑問の声が多くあがったこと。県民にとって、長野=長野市のイメージが強いことは以前から知っていたそうで、それを視覚的に表現してみようと思い画像を作成したそうだ。
県民の想像する長野の図では長野市だけでなく長野市周辺を指している。その理由については、
「同じ県民でも、特に私のように中南信に住んでる人からすると『長野市』が身近ではないので、『長野』と言われると『あの辺だな...』という感じになるからです」
としている。長野市が遠すぎるあまり、図のように周辺も含めてぼんやり表現したようだ。
Jタウンネットは塩尻出身の社員Sにも話を聞いてみた。おいでよ塩尻さんが制作した図を見せてみると、
「わかる気がします。長野市に行くときは『長野』に行くと言っていました。塩尻から長野は特急を使っても1時間ほどかかるので遠いです」
とのこと。長野市だけを指すか、その周辺を含めるかは人によって異なるようだが、「長野市が遠い」という感覚は同じのようだ。
また長野県は、天気予報などで北部・中部・南部の3つの地域に分けられることがある。長野の広い土地柄を考えれば、この3つの地域は他県に等しい感覚なのかもしれない。
県全体は「信州」?
ここで気になるのが、長野県全体のことを県民が何と呼んでいるかである。
投稿には「信州って呼びがち」「信州って言うことが多い」という声が寄せられているが本当なのだろうか。
そもそも「信州」とは何なのか。県立長野図書館の調べによれば、「信州」は「信濃」の別称。信濃は現在の長野県のほぼ全域を占める旧国で、大化改新(645年)頃に成立したという。長野県=信州という認識はほぼ合っているようだ。
県全体を信州と呼ぶことについて、おいでよ塩尻さんに聞いてみた。
自身の日常会話では「長野県」ということが多いが、ツイッターでは1文字でも短く伝えるため「信州」と書くことも多いとのこと。県民であれば県全体を指して「信州」と言ってもわかると理解を示した。
「同じ県内でも地域ごとにかなりの距離があり、その間に山があったりして、明治時代には中南信が別の県の時期があったり、合併後も何度か分県の動きすらありました。1つの県としてではなく『信州』という地域名で呼んだ方がしっくりくる人が多いのにも納得いきます」
長野県議会の公式サイトによれば、1876年(明治9年)、当時の長野県と筑摩県の一部が統一され、現在の長野県になった。そこで新たに発足した県庁が北に寄っていることが論拠となり、移庁論、分県論が出てくるようになったとのことだ。
県全体の呼び方について、塩尻出身の社員Sにも聞いてみると、
「長野県ですかね。信州という言葉に馴染みはありますが、私はあまり使いません。他県の人に出身地を説明する時は『長野の真ん中らへん』と言います。『長野』というと長野市と思われてしまうかもしれないので」
とのこと。信州とは呼ばないものの、長野県と長野市が混合しないように気を配っているようだ。