激辛カレーの元祖「ボルツ」のいま ブームから30年...都内唯一の店舗を訪れた
カレーと歩んだ38年
食後、倉田さんから詳しい話を聞くことができた。
現在、ボルツなどが入居するビルとなっているが、ここが倉田さんの実家。神田錦町で育ち変わりゆく東京を長く見つめてきた。
今では考えられないが、この地域の道路で野球をした記憶、学校を休んで行ったビートルズの来日公演、学士会館でのアルバイト―― 数々の思い出を語ってくれた。
「隅田川の花火が前の2階の建物から見えたんだよ。本当だよ」
この場所に長らく居続けると変わってしまうことも多い。その中でボルツ神田店は1980年の誕生から38年変わらずに営業している。
元々はサラリーマンだった倉田さんだが、1975年にボルツの運営母体であるボルツ・ジャパン(現在の日本レストランシステム)に入社した。学生時代にアルバイトしていた学士会館のコックが当時のボルツ・ジャパンにいたことが決め手だ。
独立する5年までの間にボルツを数店舗、新横浜や藤沢の郊外レストランで勤務。学んだことは今でも生きている。
「テレビでも脱サラして飲食やる人を見るけど、あれが一番失敗するね」
コーヒーの挽き方や素材へのこだわりが強い人が多いとも指摘。その上で、
「コミュニケーションが一番大事ね」
と語った。技術も大事だが接客である以上、コミュニケーションが最も大事だと独立前に学んだ。
ボルツの屋号は日本レストランシステムからの暖簾分け。日本レストランシステムが運営していた店舗はなくなり、現在は神田店などごくわずかが残るのみ。それでもブーム30年が経った今でも営業し続けていることから、倉田さんの方針は間違っていないようだ。
しかし、68歳の倉田さんは、
「あと4~5年でここはね」
と自らの引き際についても話した。近年の異常な猛暑や体力の消耗、精神的な問題もあるという。
「今はバブルの3分の1程度かな。昔は近所にNHKの取材が来た時に物凄い人だかりだったけど」
今、ボルツ神田店の前は閑散としていて人通りが少ない。こうした中で営業を続ける難しさもあるようだ。それでもまたお客さんに沢山来て欲しいと願う倉田さん。そこには大きな障害があった。
「ボルツはとっくに世の中から消えたものだと思ってるんですよ。この間もボルツの看板見て入ってきて『ここって渋谷とかにあったボルツ?』って聞くんです。なくなっていると勘違いしている」
ボルツはまだ生きている―― 生まれ育った街で作り続けるカレーをより多くの人に食べてほしい。倉田さんの何よりの願いなのかもしれない。
(Jタウンネット編集部 大山雄也)