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83歳筆者が考える「田中角栄ブーム」...今更、角栄でもあるまいに

ぶらいおん

ぶらいおん

2016.08.30 11:00
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1973年、訪米した田中角栄元首相
1973年、訪米した田中角栄元首相

田中角栄が今、ブームだ。その「名言」や事績をまとめた書籍が次々と刊行され、テレビや雑誌も続けて特集を組んでいる。首相就任から44年、没後23年。生前の「ダーティー」なイメージも薄れ、今では豊かな実行力と人間力という、ポジティブな印象ばかりが語られる傾向がある。

その「現役時代」を知る人に、現在の角栄ブームはどう映るだろうか。83歳のぶらいおんさんに聞いてみた。

ブームに見る、庶民の果敢ない願望

   今太閤とか、闇将軍と呼ばれた、この過去の政治家を再評価する動きがあるようだ。複数の書籍がベストセラーになり、ロッキード事件から40年というタイミングもあって、テレビなどでも取り上げられている。当然、筆者ぶらいおんはその現役時代を知っているわけだが、果たして自分が何歳くらいで、どんな生活をしていたときの政治家かなのか?を改めて確認する目的で、大雑把に田中角栄の政治歴を調べてみた。

   1947年(昭和22年)4月、日本国憲法による最初の総選挙となった 第23回総選挙に、新たに設定された中選挙区制の新潟3区(定数5)から、進歩党が改組した民主党公認で立候補し、12人中3位(39,043票)で当選したが、前年の初めての衆議院選挙の立候補時には落選している。

『田中の属していた民主クラブは1948年3月に、吉田茂を党首とする日本自由党と合同して民主自由党となる。この政党再編により、田中は吉田茂の知遇を得た。民主自由党で田中は「選挙部長」の役に就く。

第2次吉田内閣が発足したとき、新内閣で田中は法務政務次官に就任した。

1948年12月23日に衆議院は解散し、第24回総選挙が実施される。この選挙に、炭鉱国管疑獄で逮捕され、東京拘置所に収監されていた田中は獄中立候補する。政治資金も底をつきかけた状況で、保釈されたもののわずか10日間の運動しかできない中、1月23日の選挙では2位で再選を果たした。

一審で有罪だった炭鉱国管疑獄は、1951年6月の東京高等裁判所の二審では、田中に対する請託の事実が認められないとして逆転無罪となった。

再選後の田中は国会で衆議院建設委員会に所属し、生活インフラ整備と国土開発を主なテーマに活動した。田中が提案者として関わった議員立法は33本にもおよんだ。

1953年には、建設省官僚の意も受ける形で、道路整備費の財源等に関する臨時措置法を議員立法として提出し、「ガソリン税(揮発油税)相当分」を道路特定財源とすることを可能にした。

民主自由党は1950年3月に自由党となる。田中は1954年に自由党副幹事長に就任。「吉田十三人衆」と呼ばれる側近の一人と目されるようになった。1955年3月、衆議院商工委員長となる。同年11月の保守合同で自由党は日本民主党とともに自由民主党を結党する。
田中は1952年10月の第25回衆議院議員総選挙では初めてトップ当選を果たした。

<閣僚・党幹部を歴任>
1957年(昭和32年)7月 - 第1次岸信介改造内閣で郵政大臣に就任。戦後初めて30歳代での国務大臣に就任した。テレビ局と新聞社の統合系列化を推し進め、その強力な権力と指導力により、現在の新聞社 - キー局 - ネット局体制の民間放送の原型を完成させる。その過程で官僚のみならず報道機関も掌握した。特に民放テレビ局の放送免許(とりわけ地方局の免許)を影響下に置いたことは、その後の田中の飛躍の原動力になった。
1961年(昭和36年)7月 - 自由民主党政務調査会長。
1962年(昭和37年)7月 - 第2次池田勇人内閣の改造で大蔵大臣。第1次佐藤栄作内閣まで留任。
1965年(昭和40年)6月 - 大蔵大臣を辞任し、自由民主党幹事長に就任。
1966年(昭和41年)12月 - 幹事長を辞任。
1968年(昭和43年) 5月 - 自民党都市政策調査会長として「都市政策大綱」を発表。
11月 - 幹事長に復帰。
1971年(昭和46年) 7月 - 第3次佐藤栄作内閣の改造で通商産業大臣。
10月 - 日米繊維交渉が決着。
1972年(昭和47年) 5月 - 佐藤派から田中派が分離独立。
6月 - 『日本列島改造論』を発表。
7月5日 - 佐藤栄作が支持した福田赳夫を破り自由民主党総裁に当選。
7月6日 - 第1次田中内閣が成立。初の大正生まれの首相であり史上初の新潟県出身の首相である。各種機関の内閣支持率調査で70%前後の支持を集める。なお、田中の次の大正生まれの首相は5代後の中曽根康弘。

<首相在任時>
1972年(昭和47年) 9月 - 日米首脳会談後に中華人民共和国を訪問。北京で周恩来首相や毛沢東共産党主席と会談。9月29日、両国の共同声明により日中国交正常化が実現し、日華平和条約の終了を確認。同日、中華民国が対日国交断絶を発表。
12月 - 第33回総選挙。自由民主党は過半数確保するも議席減、日本共産党が躍進。
12月22日、第2次田中内閣発足で挙党一致体制へ。
1973年(昭和48年) - 地価や物価の急上昇が社会問題化。 5月 - 小選挙区制導入(小選挙区比例代表並立制)を提案。野党と世論の猛反発を浴びて撤回に追い込まれた(カクマンダーと称された)。
8月 - 金大中事件発生。東西冷戦下において当時の朴正煕政権を支持するとの立場から、韓国側の一方的な政治決着を受け入れた。
9月 - 西ヨーロッパ訪問。
10月 - ソビエト連邦訪問。日ソ共同宣言時の鳩山一郎以来であり、ブレジネフソ連共産党書記長との会談において、「両国間にある未解決の問題の中に北方四島の問題が含まれる」という事を確認する日ソ共同声明を発表したが、領土問題についてはそれ以上の成果はなかった。一方、経済協力についてはシベリア開発などでの進展が見られた。
10月16日 - 第四次中東戦争から第一次オイルショックが発生。中東政策をイスラエル支持からアラブ諸国支持に転換すると共に中東地域以外からのエネルギーの直接確保に努めた。
11月 - 内閣改造。福田赳夫が大蔵大臣就任。需要抑制・省エネルギー政策へ転換し、電源開発促進税法等電源3法を成立させ柏崎刈羽原子力発電所への補助金へ当てる。
1974年(昭和49年) 1月 - 東南アジア訪問。インドネシアの首都ジャカルタで反日デモ(マラリ事件)に遭遇する。
7月 - 第10回参議院選挙。ヘリコプターをチャーターし、栃木県を除く46都道府県に訪れて演説等の選挙活動を行うが、議席は伸び悩み、参議院は伯仲国会になる。三木武夫や福田赳夫が閣外へ去る。
9月 - メキシコ訪問。日本メキシコ学院の設立のための援助資金を持ち、 エチェベリア大統領(当時)との会談の結果、「両国民の相互理解のために画期的な重要性を有するものであって、早期建設を支援する」旨の共同声明を発表。
10月 - 月刊誌『文藝春秋』で「田中角栄研究」「淋しき越山会の女王」が掲載。立花隆らが田中金脈問題を追及する。
11月 - 日本外国特派員協会における外国人記者との会見や国会で金脈問題の追及を受け、第2次内閣改造後に総辞職を表明。フォード大統領(当時)が来日して会談。現職アメリカ合衆国大統領の訪日は初めて。
12月9日 - 内閣総辞職。椎名裁定により三木内閣発足。首相在職通算日数は886日。

<首相退陣後>
全日本空輸が購入したロッキード社のL-1011トライスター1976年(昭和51年) 2月 - ロッキード事件発生。アメリカ合衆国の上院外交委員会で、ロッキード社による航空機売り込みの国際的リベート疑惑が浮上。7月27日に、同社による全日本空輸に対する売りこみにおける5億円の受託収賄罪と外国為替・外国貿易管理法違反の容疑により、秘書の榎本敏夫などと共に逮捕される。また全日本空輸とロッキードの販売代理店の丸紅の社長以下数人の社員も逮捕された。なお首相経験者の政治家が逮捕されるのは昭和電工事件の芦田均以来。逮捕時に自民党を離党し、以後無所属に。
8月 - 保釈。
12月 - 第34回総選挙。トップ当選するが、自民党は大敗し、三木内閣は総辞職、福田赳夫内閣発足。
1978年(昭和53年)12月 - 第1次大平内閣発足。田中が強く支持。
1979年(昭和54年)10月 - 第35回総選挙。トップ当選するが、自民党は大敗し、その後の「四十日抗争」で田中は大平正芳を支持。党分裂の危機へ。
1980年(昭和55年)6月 - 第36回総選挙。参議院とのダブル選挙。トップ当選し、自民党も圧勝。その後の鈴木善幸内閣発足を支持。
1982年(昭和57年)11月 - 上越新幹線暫定開業(大宮 - 新潟)。第1次中曽根内閣発足。田中の全面的な支持を受け、「田中曽根内閣」と揶揄される。
1983年(昭和58年) 10月 - ロッキード事件の一審判決。東京地方裁判所から懲役4年、追徴金5億円の実刑判決を受け、即日控訴(「不退転の決意」)。
12月 - 第37回総選挙。11月28日に衆議院解散(田中判決解散)。22万票の圧倒的支持を集めて当選。田中批判を唱えて新潟3区から立候補した前参議院議員の野坂昭如は落選。ただし、自民党は大敗し、中曽根康弘総裁が「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」声明を発表。
1984年(昭和59年)10月 - 自民党総裁選。田中派(木曜クラブ)会長の二階堂進副総裁を擁立する構想が起こり、田中は中曽根再選を支持。12月、田中派内の中堅・若手により、竹下登を中心とした「創政会」の設立準備が進められる。
1985年(昭和60年) 2月7日 - 創政会が発足。
2月27日 - 脳梗塞で倒れ入院。言語症や行動障害が残り、以降政治活動は不可能に。
6月 - 田中事務所が閉鎖。
9月 - ロッキード事件控訴審開始、田中は欠席。
10月 - 関越自動車道全通。
1986年(昭和61年)7月 - 第38回総選挙。トップ当選。田中は選挙運動が全く行えず、越山会などの支持者のみが活動。自民党は圧勝。4年近くの任期中、田中は一度も登院できなかった。
1987年(昭和62年) 7月4日 - 竹下が経世会を旗揚げ。田中派の大半が参加。二階堂グループは木曜クラブに留まり、中間派も含めて田中派は分裂。
7月29日 - ロッキード事件の控訴審判決。東京高等裁判所は一審判決を支持し、田中の控訴を棄却。田中側は即日上告。
10月 - 竹下が田中邸を訪問。眞紀子に門前払いされる。後に皇民党事件として表面化。
11月 - 竹下内閣が発足。
1989年(平成元年)10月 - 直紀が次期総選挙への田中角栄の不出馬を発表。
1990年(平成2年) 1月24日 - 衆議院解散により政界を引退。衆議院議員勤続43年、当選16回。各地の越山会も解散。
1992年(平成4年) 8月 - 中国訪問。中国政府の招待で20年ぶりに訪中し、眞紀子などが同行。
12月 - 経世会が分裂。

1993年(平成5年) 7月 - 第40回総選挙。眞紀子が自らの選挙区だった新潟3区から無所属で出馬し、初当選。田中自らも病をおして新潟入りし、眞紀子の応援をする。後に自民党へ入党。選挙で過半数を下回った自民党は下野し、元田中派所属の細川護熙による非自民8党連立内閣が発足。
12月16日 - 慶應義塾大学病院にて75歳で死去。戒名は政覚院殿越山徳栄大居士。墓所は新潟県柏崎市(旧西山町)田中邸内。ロッキード事件は上告審の審理途中で公訴棄却となる。内閣総理大臣を1年以上在任した人物は正二位・大勲位菊花大綬章以上に叙される事が慣例となっているが、田中は有罪判決を受けた刑事被告人のまま死去したため位階勲章は与えられなかった。

<没後>
1995年(平成7年)2月 - 榎本敏夫に対するロッキード事件上告審の判決理由で、最高裁判所が田中の5億円収受を認定する(首相の犯罪)。
1998年(平成10年)4月 - 田中角栄記念館が新潟県柏崎市(旧西山町)に開館。』

   以上、専ら、ウィキペディアからデータを収集したが、改めて、こうしてみると、田中が初めて衆議院選挙に立候補して落選し、次の年に当選した頃が1946、47年(昭和21、22年)ということで、これは筆者が中学1、2年生の時であり、そして1990年(平成2年) 1月24日に 衆議院解散により政界を引退したとのことだから、そのとき筆者は57歳になっていた筈で、田中の政治家としての活動期間が、略戦後の昭和時代から昭和の終わりまでを網羅していたことになり、漠然と考えていたより遥に長く、これには筆者も些か驚いた。

   また、2009年(平成21年)3月、 朝日新聞の『「昭和」といえば何を思い浮かべますか... 全国世論調査』において、人物の分野で回答の21%を占め3位以下を引き離し2位となった(1位は31%の昭和天皇であった)、という。

田中角栄は、ロッキード事件発覚による受託収賄罪で逮捕、起訴されたことによって自民党を離党したが、すぐに保釈された上に受託収賄罪の刑事訴訟が長期裁判化して実刑確定に至らないまま係争中であることを口実に、自身は無所属候補として地元選挙区で1位当選し続け、自民党籍を持たない無所属衆議院議員(いわゆる「自民党周辺居住者」)ながら派閥領袖として田中派を通じて裏舞台から政界に影響力を維持し続け、マスコミは「闇将軍」と称した。特に大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘の首相就任には田中の支持が不可欠であり、キングメーカーのポジションにあった。閣僚や党役員や国会の委員長人事にも関与し、自身の刑事訴訟における指揮権問題につながる法務大臣や党資金や選挙における公認権限を持つ自民党幹事長などの重要ポストを田中派及び田中に近い議員で多く占めた。また、田中が闇将軍として大きく影響力を与えた内閣は「角影内閣」「直角内閣」「田中曽根内閣」とも呼ばれた。また自身の無罪が確定した場合は自民党への復党による表舞台復帰と総理総裁への返り咲きすら目論んでいた。
しかし、1985年に病に倒れ、次第に影響力を失っていった。

   こうした資料から見ると、自分で意識していたより遥に、筆者はこの政治家が行った長期間に亘る諸活動の結果の影響を良きにつけ、悪しきにつけ受けていたことになるし、また、今の自民党にしても、長年に亘り実質的に田中が支配、運営、構築して来た結果、現在の自民党が存在するのだ、という事実を誰も否定は出来ないだろう。

   そのような客観的事実を踏まえつつ、率直に私、ぶらいおんの見解を述べてみよう。

   正直言って、「今太閤」の実力者とはやされたイメージが筆者の中では強い。そして、「今」を付される「太閤」も何も付かない「太閤」に対しても、率直に言って筆者は「肯定的印象と、肯定しがたい印象」の双方を有している。

   それは、お世辞にも上品とは言えぬ、金にものを言わせる(金権体質)成上り者のイメージを払拭することは出来ない一方で、昔の太閤も巧みだったと言われる「人誑し(たらし)」の見事さには圧倒される。

   自らは、現代の常識で言えば、殆ど学歴らしい学歴も有していない無教養な、雪国出身の田舎者と言われても仕方が無い境遇の人間でありながら、その頭の回転の速さとエネルギッシュな行動力からコンピューター付きブルドーザーとも称されただけでは無く、その人誑しのテクニックには、舌を巻かざるを得ない。すなわち、一癖も二癖もある政治家を、巧みに操ろうと努める優秀で狡猾な官僚達を手なずけ、また己の陣笠として、如何なる事態が起ころうとも終生忠誠を誓わせるように仕向けた配下を数多く生み出した能力には、将に脱帽である。
   しかし、ここで忘れて成らないのは、このテクニックには常に「金」が付きまとっていたし、その金を、大きなリターンを期待する組織や個人から節操なく掻き集め、有力な武器としてばらまいて得た成果であるという事実だ。

   それが、田中を支える力となり、表舞台から退場した振りをしながらも、裏舞台で長年に亘り闇将軍として君臨した男の実績であろう。その実力と狡猾さがずば抜けていた事実を認めることに、筆者も吝かでは無い。

   今、この毀誉褒貶相半ばする過去の政治家を改めて再評価しようという動きは、偏にこの閉塞感に満ちた現状を、何とか打ち破る手立てになりはしないか?という庶民の果敢無い期待の表れであろう。しかし、それはどんなものだろう?

   ロッキード事件の論告求刑の数週間後、民社党の衆議院議員であった和田耕作は「田中前総理と政治倫理」というパンフレットを作り、「角栄の功績を法律論で縛ってはいけない。政治家としての行動規範は検察的求刑には馴染まない。仮に5億円を授受していたとしても、私的に着服したものでも無かろう。政治家の政治倫理の問題を単なる法律違反の論議に矮小化してはならない」「私は政治倫理の消極面を過小評価するつもりはないが、それを必要以上に強調すれば、何もしないサラリーマン的政治家が立派な倫理的な政治家であるかのような重大な錯誤が起こるからである」という内容で、永田町周辺にばらまいた、そうだ。

   それに対し、筆者は考える。ここで、使われている「何もしないサラリーマン的政治家」とか「立派な倫理的な政治家」とは、一体何だ!「サラリーマンが何もしない」という偏見もさることながら、「立派な、倫理的政治家」とは笑わせる。政治家に限らず、真面目な人なら誰でも"倫理的"であろうとするのは当然で、それをことさら強調するのは、逆に言えば、事程左様に「政治家が倫理的で無い」ことを自ら示していると言えるだろう。将に語るに落ちる、というのはこのことだ。

   ましてや、和田の発言の趣旨は「だから、田中角栄という政治家が5億受け取ろうが、10億受け取ろうが、自分のポケットに入れて、直接自分の飲み食いや遊興費に使いさえしなければ、自分のために派閥を作り上げ、己に権力を集中させて、思うままに力を振るおうとしても、一切問題ではなく、また刎頸の友の事業に還元して利益を上げ、見返りを求めることも同様であって、どんなことも活動的に、即実行することこそ、真の(あるいは優れた)政治家の姿であり、その行為は律違反の検察的求刑には馴染まない。」と言うなら、それに対し、こちらも独断と偏見をもってストレートに申し上げることにしよう。

   元々筆者にとって、知る限り、少なくともこれまでの日本の政治家で真に尊敬に値するような人物には、残念ながら、現実にも、資料の中でもお目に掛かったことはない。

   「政治家」という類の人種は、筆者の考える、人としての分類からすると最下位に位置し、その結果、今の「政治家」は必要悪である、とさえ言っても過言で無い、と考える。尤も、この問題は政治家だけに責任を押しつけても解決しないだろう。
   本来、「政治家」というものは、斯くあらねばならない、という共通の認識が一般庶民の中で確立されていないことの方がより問題であろう。

   「こんな人には成って貰いたくない」というような立候補者しか当選せず、その種の人間が現実の政治家となっているのが現状だ。「是非、この人に政治家になって貰いたい」というような人は、様々な理由から立候補すらすることもなく、埋もれたままであるのに対し、単に数を集めて力とし、力を集約するために金集めに奔走して、成功した輩だけが政治家のリーダーとして国家を動かしたりする仕組みになっているから、いつまで経っても世界中に紛争の途絶えることは無いし、人類の世界は益々悲観的な方向に進むばかりだ。

   田中角栄の政治は、一見、様々な課題を解決し得るか?と人々を期待させた、あだ花こそ咲かせたものの、その残されたツケは非常に大きく、日本はその負の遺産から未だに脱却し得て無いし、また脱却の兆しすら認めることが出来ないのは、誠に情けなく、悲しい限りだ。

   その結果、一般庶民の願いとは懸け離れた、迷走する保守政治の悪弊から未だに逃れることも出来ず、庶民は只ただ呻吟するばかりだ。今更、角栄でもあるまいに、その再評価を世に問おうとする、行政府の長を経験した筈の、筆者と同世代の政治家(?)のピント外れの感覚なども、単なる老害の一つとしか思えない。

   その感覚は、この種の、田中角栄の発言「物価とかね公害なんていうのは、大したこっちゃありませんよ。こりゃね、まぁ、雨漏りがするとか、雨戸が飛んだとか、下水が溢れるとかいう程度のもんだ。」(1974年7月7日の参議院選挙へ向けた街頭演説)と何ら変わりの無い、勢いだけで、中身の無い戯言ことどころか、無知な暴言に過ぎず、そんなものに誤魔化される「一般大衆の愚鈍な数の力」こそ最も危険なファクターであり、人類の正しい進歩を阻む最大の要因である、と今更ながら、改めて考えざるを得ないのは、筆者にとって将に残念の極みだ。

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筆者:ぶらいおん(詩人、フリーライター)

東京で生まれ育ち、青壮年を通じて暮らし、前期高齢者になって、父方ルーツ、万葉集ゆかりの当地へ居を移し、今は地域社会で細(ささ)やかに活動しながら、西方浄土に日々臨む後期高齢者、現在100歳を超える母を介護中。https://twitter.com/buraijoh
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