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82歳筆者が考える、「子どものスマートフォン利用」...私的コミュニケーション変遷史より

ぶらいおん

ぶらいおん

2016.06.07 11:00
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慰問袋とSNS

   筆者の小学生時代と言えば、昭和15年(1940年)4月から同21年(1946年)3月ということになるが、実はその間3回も学校制度の改変と共に名称も変更されている、すなわち××尋常小学校→××国民学校→××小学校である。

   それはさて置き、その時代の一般的通信手段といえば、庶民の間では専ら手紙や葉書のみ、と言ってもよかろう。無論、筆者の生まれた頃には電信、電話システムも確立されていたが、それは専ら組織的公務や、会社やそれに類する私的組織で利用されていたに過ぎず、一般庶民の家庭に普及したのは、無論戦後の、それも可成り後の時代からであった、と記憶する。筆者が新制都立高校1年生となった頃、旧制歯科専門学校の教授を辞職し、自宅で歯科医院を開業した父が営業用に引いた電話が我が家の電話時代の始まりだった。

   従って、それ以前の時代に、小学生であった筆者が利用した通信手段といえば、手紙、葉書のみである。これらは本来、宛先(受取人)が特定されているのが普通である。その時代には、今の子どもたちのように、スマホで特定の受取人以外に、SNS等を介し何処の誰か分からぬ相手と繋がることなど決して無かった!と思うかも知れぬが、その答えは"no"である。

   筆者の子ども時代には、戦地で戦っている兵隊さん達を慰労するために、慰問袋というものが存在し、その中に子どもたちの書いた手紙や葉書を入れることが奨励された。これは将に子どもたちから不特定多数の何処の誰かも不明な大人たちに向けて発信されたメッセージであることは間違い無い。

   しかし、現代のように、ネット犯罪に繋がるような恐れが、それらのコミュニケーションにあったとは思えない。それは時代も、時代だし、第一、戦時下のあらゆるコミュニケーションには軍部による厳重なフィルターが掛けられていた。作戦上の理由から、特定の地名(特に、戦地)が洩れるようなことは最も警戒されていた。

   プライベートな情報発信では無いが、この時代に筆者が関わった最も印象的なメッセージ発信の思い出は、太平洋戦争が転機を迎えた昭和18年(1943年)4月に発生した大事件に関係している。それは大日本帝国海軍第27代連合艦隊司令長官山本五十六大将が飛行機で前線視察中ブーゲンビル島上空において、敵米軍機により撃墜され、戦死したことである。

   第26、27代連合艦隊司令長官、山本五十六海軍大将は、戦死後元師に特進した。彼はハーバード大学にも留学し、欧米事情にも詳しく、日独伊三国軍事同盟や日米開戦に最後まで反対していた。しかし、自分の意見が聞き入れられず、日米開戦が準備されると、ハワイ奇襲作戦を立案、成功させ、また日米間に於ける国力の差を冷静に分析し、「短期決戦・早期和平」という現実的な作戦計画を実施しようとしたこと等、旧日本海軍軍人の中でも傑出した名将としての評価は今日でも高く、海外においても広く賞賛されている。しかし、現実には、専ら陸軍を主流とする主戦派の意見に押し切られ、帝国海軍連合艦隊司令長官を務め、南方方面作戦に従事していた。

山本五十六大将の戦死は1ヶ月以上秘匿され、5月21日の大本営発表ならびに内閣告示第8号[314]で公になった[315]。山本に対し大勲位、功一級、正三位と元帥の称号が贈られ、皇族以外では希有な国葬に付することが発表された。新聞は連日報道を行い、日本国民は大きな衝撃を受けた。

   こうした状況は、いわゆる少国民である筆者のような国民学校の生徒たちにも全く同じような感情を派生させ、学校では国葬に対応して、全校生徒1000人以上全員が校庭に集合して追悼式を行った。

   この際に、予め選出され、指名された数人に、山本元帥を追悼する作文を書いて提出することが求められた。そして、その中から多分、二、三篇だけが全校生徒の前で執筆者本人により朗読、発表されることとなり、どういう訳か(文章を書くことは比較的好きであり、作文は得意ではあったが)当時国民学校四年生であった筆者の作文がトップに発表されることになった。
   どんなことを書いたか?今となっては定かでは無いが、基本的な内容は、我が国の優秀な海軍司令長官が、お国のために尊い生命を捧げ、国に尽くした真心を褒め称えると共に、それに続く我ら少国民も決して恐れること無く、鬼畜米英を殲滅し、最後までお国のために滅私奉公せねばならない、という趣旨であったに違いない。元々それにそぐわないことなぞ当時の状況では浮かぶ筈も無いし、万一そうした気概に欠ける文章だったら、当然、事前チェックの際の先生の手が入ったであろうことは間違い無い。

   その後、戦局は悪化するばかりで、連合国の包囲網は狭まり、敵機による我が国内地の大都会に対する空襲の危険が増大したため、国は「疎開」という法令を発した。すなわち、軍の作戦を遂行するに際し、障害(邪魔)となる建造物などは強制的に取り壊すこと(建物疎開)や軍需工場に徴用して働かせるには幼すぎる国民学校(今の小学校)第3学年から第6学年までの生徒を、学校単位で地方に移住させ、空襲による被害を回避しながら、集団生活により学校教育を継続する(集団疎開)ことにした。

   筆者も、引き続く父の郷里への縁故疎開(家族単位の疎開)に先立ち、国民学校5年生の夏頃、山形県山中の小さな町の旅館に学友と共に集団疎開させられた。自宅を出発する際、郵便葉書と封筒、便箋などを持参させられ、健康状態などをこまめに報告するよう両親から言い含められた。それは筆者ばかりでは無く、疎開していた子どもたち全てが同じだった、と思う。

   この時代には、子どもたちの窮乏状態を心配した親たちが、必死の思いで入手したお菓子などを小包で我が子に差し入れたりしたが、結局、それらは全て開封され、集団生活を理由に全員に分配されて、ホンのひとかけらが受取人の子どもの口に入るだけであった。

   それでも、担任教師や、子どもたちの日常生活の面倒を見るため、新たに募集された、いわゆる「寮母」さんたちから、小包を受け取った子どもに対し、「おやつを美味しく食べられて、有難うございました」という趣旨の返事を発送人の親に返信するように薦められたが、この場合、書いた手紙や葉書を書き手がそのまま投函することは許されず、必ず寮母さんや担任教師の手を経ねばならなかったから、責任者や監督者に都合の悪いことは検閲により当然回避されていたであろう。
   事実、家が恋しくなり、迎えに来て欲しいなどという内容が発信されることは事前検閲により親元には届かないように管理されていた。

   後から考えてみれば、こうした管理された状況下でしか、当時の国民学校生徒たちの情報発信-受信はあり得なかった。

   つまらないエピソードを付け加えると、当時国民学校5年生(11歳)の筆者は手紙の宛先に、普段は口に出して呼ぶことも無い親の"姓名"様を宛先として記入することは理解していたが、便箋の中でも同じように表記して、親から宛先以外の中身では、普段のように「お父ちゃま」「お母ちゃま」と呼んで良いのだ、と教えられたりしたこともあった。

   敗戦で、戦争が終わり、中学生となったが、余り手紙や葉書を書いた覚えも無く、無論、当時の中学生が電話を気軽に利用する機会など事実上無かった。友達とは顔を合わせて交流するだけであった。

   学校制度が変更され、5年制の旧制中学校は3年制の新制高校および新制中学となり、筆者が新制高校2年生となったとき、今まで男子校であった旧都立中学校(現新制高校)にも遂に新入の女子生徒が入学して来て、男女共学とはなったが、我々の入学年度クラスだけは依然として男子のみのクラスで、卒業までその状態が維持された。

   男子ばかりの我々には、女子生徒が珍しく、何とか親しくなりたかったが、筆者の入学年度には居ないわけで、結局、部活を通じ、下級生の女生徒と交流することが望みを達する道だった。

   筆者が3年生になり、書道部に属していたとき、1年生として進学して来た一人の少女と親しくなり、交換日記を利用し合うようになった。淡い初恋だったと思うが、今どきのLINEなどとは大違いのコミュニケーション手段であった。

   この前後から家の電話を利用して、友人や知り合いたちと連絡し合うこともあったが、今の感覚の電話とは異なり、飽くまで、父の営業用電話を借りる「呼び出し電話」の形態であり、しかも呼び出して呉れるのが、それで無くとも煙たい存在である父だから、随分窮屈な思いをし、特に女性からの電話の場合は、別に悪いことをしているわけでも無いのに、何となく気が咎め、会話していても、落ち着いた会話など到底出来る雰囲気では無いし、況してや親に隠れて連絡を取り合うことなど全く出来無かった。

   その後の大学生時代には交友関係もそれなりに拡がったが、直接会話以外、コミュニケーションの手段は、依然として「呼出し電話」と郵便文書での送受信くらいしか無かった。

   卒業後の民間会社5年間勤務中は会社でファクスを利用したことを除けば、プライベートな固定電話と郵便文書を介したコミュニケーションが直接会話出来ない場合の手段であった。その後の15年に及ぶ特許法律事務所勤務中も、相変わらず電話、FAX、テレックス、郵便が主流であった。

   日本国内でインターネットによる接続が開始されたのは、昭和59年(1984年)。平成13年(2001年)にはCATV、無線通信等によるインターネットへの接続サービスが開始され、平成14年(2002年)から平成17年(2005年)に掛けて、友人紹介型のソーシャルネットワークサービスが提供され始める。そして2010年代には、一般的に日常生活で利用されるような様々なサービスが提供開始された。(出典:ウィキペディア)

   筆者がフリーランスで技術翻訳業を営為する最中にインターネット時代が到来したわけで、この頃から専ら仕事上Eメールなどを多用し、更にプライベートでもネット利用のコミュニケーションが主流となって行った。

   そして、82歳となった現時点でも、スマートフォンを介した会話とネット経由のコミュニケーションが筆者のメイン手段である。今は中学生となった二人の孫が居るが、特に中学2年生の孫娘とはTwitterでダイレクトメッセージで交信している。過日の孫とのやり取りをそのまま忠実に再現してみると、次の通りである。

孫娘『××(孫の愛称)だよー! 今日結構大きい地震あったでしょ?? 大丈夫?』
筆者『ありがとう!大丈夫だよ。』
孫娘『おー良かった良かった(*・ω・) 津波もなくて良かったよね(???)』
筆者『津波は全然無かった!揺れもW県北部はそれほど大きくなかったよ。 話違うけど、これじいじが書いたんだよ。→ 情報ウェブサイト "Jタウンネット" https://j-town.net/tokyo/column/allprefcolumn/223654.html ... 読んでみてね。ちょっと難しいかな?』
孫娘『読んだよー じいじって色んな事できるんだね!』
筆者『ありがとう!××だって大人になれば出来るよ!色んなこと沢山覚えながらね...。』
孫娘『うん!』

   この孫が中学1年生、その弟が小学校6年生の時、彼らの東京の家を訪問したが、その両親は「中学生になるまではダメ」と言っていたスマホを買い与え、下の弟はゲーム機を手にしており、従って、二人ともネット環境にあったわけで、筆者の持参したスマホやタブレットを見て、筆者に対し、「じいじもゲームやってみれば...、面白いよ。どうして、やらないの?」としつこく問い詰めて来た。筆者は半ば本音でこう答えた。「ゲームを始めると、きっとじいじはハマってしまうと思うから、やらないんだよ」

   だから既に、孫たちは「悪質なネット犯罪に巻き込まれる恐れ」も有る訳だが、その辺は矢張り、学習効果や将来の機器活用の可能性も考慮して、頭から年端の行かぬ子どもたちに、悪質なネット犯罪の危険性があるから、という理由で「インターネット利用禁止」を押しつけるのは、現実的では無く、かと言って無責任に放置すればよいとも思えない。飽くまで、バランスを取った利用方法を丁寧に子どもたちに教え、親や教師や年長者が注意深く見守るべきだ、と筆者は考える。

   それ故、筆者がこうして孫とTwitterで交信出来るのは悪いことでは無い、と信じている。万一、忙しい共働きの両親にも言い難いことがあったりして、孫が迷い、悩んだりした時には、たとえ距離的に離れていても、タイムリーに気安く相談出来る、信頼の置ける年長者が居れば、色々苦労しながらでも、きっと逞しく成長してくれるものと信じている。現に、海縁に住んでいる祖父母を心配して、直ぐに声を掛けることが出来るのだから、今のネット環境は筆者の子ども時代に比べれば、素晴らしい進歩と利便性をもたらしている、と思う。

   昔から、「鋏は使いよう」と言われるように、便利な機器にメリット、デメリットがあるのも当然で、結局、その活用に際する配慮の仕方如何に尽きる、と言っても過言では無かろう。

   日本各地のPTAも教育委員会も、周到な準備と環境を整えた上でバランスの取れた結論を出して欲しいものだ。

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筆者:ぶらいおん(詩人、フリーライター)

東京で生まれ育ち、青壮年を通じて暮らし、前期高齢者になって、父方ルーツ、万葉集ゆかりの当地へ居を移し、今は地域社会で細(ささ)やかに活動しながら、西方浄土に日々臨む後期高齢者、現在100歳を超える母を介護中。https://twitter.com/buraijoh
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