杉並区・中野区も「神奈川県」だった! 東京23区に残る「多摩の痕跡」を追う
前回、神奈川県と東京都の「領土問題」について、史料を基に紹介した。西多摩、南多摩、北多摩の「三多摩」に焦点を当てたが、もうひとつの「東多摩」にも領土をめぐるアレコレがあった。
このエリアには、ブロードウェイやサンプラザで知られる中野や、「ラーメンの街」荻窪といった繁華街があるが、これらもほんの数か月だけ「神奈川県」として扱われていたのだ。
東京と神奈川にわかれた「多摩郡」は1878年、郡区町村編制法に基づいて、東京府の「東多摩郡」と、神奈川県の「西多摩郡」「南多摩郡」「北多摩郡」に分割。18年後の1896年4月には、東多摩郡が南豊島郡と合併し、「豊多摩郡」となった。
1916年に発刊された「東京府豊多摩郡誌」には、こう書かれている。
「(編注:明治4年)十一月十三日品川県廃せられて東京府管轄に轉じ、翌五年五月東多摩郡を東京府より割きて神奈川県に組換へ、第四十六、七区とす、尋で同年八月十九日之を東京府に復す」(一部、現代の漢字表記に変更)
この記述が正しいとすれば、中野と杉並は、明治5年5月から8月まで、3か月ばかりの「神奈川県」だったことになる。